公園から東に向えば、敬愛する萩原朔太郎の旧居も遠くないが、今日は西に向った。都立梅ヶ丘病院には公園から5分ほどで着いた。
正門の左手、植込の中に昭和62年に東京都が建立した御影石の歌碑が堂々と建つ。碑面には、「茂吉われ 院長となり いそしむを 世のもろびとよ 知りてくだされよ」と活字体で刻まれ、左側には「大正15年に港区青山から当地に移設された青山脳病院は、昭和2年から同20年まで斎藤茂吉氏が院長として経営に当たられた。昭和20年東京都に移管され現在に至る。病院の増改築を記念してこの碑を建てる」と経緯が記されていた。
斎藤茂吉(1882−1953)といえばアララギ派の有名歌人として知られているが、東大医学部を卒業、長崎大学教授、ドイツ留学を経て、父の創設した青山脳病院の経営に当たった精神科医が本業。碑面の歌には作歌活動に専念したいと思いながら多忙な毎日を過さねばならなかった悲鳴が聞こえる。それをユーモラスに訴えているのが印象的である。
日暮れまでにあと少し訪碑を続けようと梅ヶ丘駅に急いだ。季節が冬に向って驀進する中、散ばる思い出の枯葉たちを掻き集めた一日は終りに近づいていた。
(写真は左から「世田谷信用金庫前・白秋歌碑」「梅ヶ丘・中村汀女句碑」「梅ヶ丘・斎藤茂吉歌碑」)
−1963.春−経堂−
東京の人口が1000万人を突破し世界一の大都会になったのは確か昨年であった。流れ込んで来た一人として、二年前からその混雑に紛れ込んでいた。
急速な膨張に追いつかない電車の混雑から解放され、小田急を経堂駅北口で降りた。半ドンの土曜日であったが残業したので、駅前の「すずらん商店街」はその名前のような小さな店が灯りを点し始め、焼き鳥の匂いが通りに流れていた。「古書・遠藤書店」をひやかす。見慣れた書棚で、新しく入荷した本と挨拶を交わす。刊行されたばかりの安部公房「砂の女」が、もう古書として、買って欲しそうにこちらを向いていた。
一昨年、新築されたばかりの独身寮であった。薄汚い学生下宿から引っ越してきたので「江分利満氏の優雅な生活」(山口瞳)が待っていた。6畳の居室、「白い城」と命名した部屋は、学生時代からの小さな机と本箱が片隅に陣取るだけなので十分広かった。机の上に飾った中原中也の詩が、私の部屋を主張していた。一方、先輩諸氏の部屋には書籍が山をなし、密かに「梁山泊」と呼んでいた食堂で交わされる先輩たちの会話には自信を失うばかりであった。
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