それと並んで「世田谷のボロ市」の解説板。「16世紀に小田原の北条氏政によって始められたこの市は、江戸時代には年一回12月15日に歳の市として開かれ、正月の準備で大いに賑わった。明治時代以降は毎年1月15日と16日に定期的に開かれて、今も賑わいを伝承している」 とあった。毎年の風物詩として新聞紙上に紹介されている。一度、来て見たいと思いながら桜小学校に足を伸ばす。
上町駅前の桜小学校の歴史は先の短歌にも登場しているように古い。校歌は往時の生徒の歌詞を白秋が補作したもので白秋との縁が深い。事務室で許可を得て、校舎脇の歌碑を見せてもらう。高さ1.5mほどの三角形の石に、「桜を思ふ」と題して「桜小学校に桜の校歌成りけり 子ら歌う頃は花の咲かむぞ」「ぼろ市に 冬はまづしき 道のしも 桜小学に 通ふ子らはも」と骨太に刻まれ、末尾には「桜小学校創立百周年記念実行委員会.昭和53年建立.筆者・寺内大吉」とあった。
懐かしい玉電に今一度、との思いはあったが、今日は世田谷城址と豪徳寺を覗いて見ようと、北に向って歩く。狭い駅前通りを抜けると公園となっている城址に出会った。中世に世田谷を支配した吉良氏(忠臣蔵の吉良上野介はこの吉良氏の遠い親戚)の居城跡。大きな空堀跡と土塁群跡が地肌荒々しく露出していた。
公園の直ぐ北側が豪徳寺の山門。「豪徳寺」の寺標は真新しく豪華に再建されていた。ここは室町時代に世田谷城主・吉良政忠が建立した寺として発祥し、江戸時代に世田谷の領主になった彦根藩主井伊家の菩提寺となり、藩主井伊直孝の法名に因み、豪徳寺と改称されて堂宇が立ち並ぶ景観を整えたという。鐘楼脇に燃え立つ紅葉から始めて広い境内に秋を拾って歩く。墓地の奥にある「井伊直弼」の墓に参詣。明治の三筆として活躍した書家・日下部鳴鶴の記念碑も見学。梅ヶ丘に向う。何度か訪れた梅ヶ丘駅前のイタ飯屋さんは今も健在。嬉しくなって遅い昼食を注文する。
グラス一杯のワインに火照った頬を秋の風が撫でる。目指す羽根木公園は駅の北側のこんもりとした丘。昔は小田急からも見えた、と思い出を辿りながら登る。眼下にあった「古書・麦書房」は店主が老齢で豊橋に転居して消えた。
ここは、現在、梅の名所として知られているが、大正時代の末期に根津財閥の所有地となり根津山と呼ばれた所。このことを知ったのは北杜夫の「楡家の人々」を読んだ時。斎藤茂吉が経営する青山脳病院は発祥の青山から梅ヶ丘に移った関係で、次男の北杜夫はこの地で育った。昆虫マニアの少年はこの根津山で虫を探したとの話が作品に登場する。
ここを憩いの場にしたのは北杜夫だけではない。昭和12年からこの近くに居を構えた女流俳人・中村汀女(1900−1988)もこの地を好んでよく散策した。その縁で建てられた句碑を探す。700本はあるという梅林を登りつめると、彼女の代表句「外(と)にも出よ ふるるばかりに 春の月」が見事な筆跡で緑色の庭石の面に散ばっていた。「春の月」ではなく、紅葉が句碑を飾っていた。この俳人の句碑は横浜・野毛山を初めとして、郷里の熊本などでも幾つか訪ねたが、何れも美しい石に刻まれた見栄えのするものばかりであった。句碑は門下生が建てる場合が多い。このことからも、女流俳人の第一人者として活躍し、多くの後輩を育てた人であることが窺える。
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