江戸時代初期に三軒の休み茶屋があったという。往時、大山詣で賑わった「大山道」(江戸から二子多摩川で川を渡り、相模の伊勢原を通り、足柄峠にまで延びる道。東海道が出来る前の主要街道)を通う旅人のシンボルが地名として残ったという。休み茶屋はビルに変ったが、名残の「大山道」の道標だけは道端で長い命運を保っていた。
   少し戻って昭和女子大のキャンパスに向う。守衛室で来訪の意を伝えると真直ぐ体育館を目指せと入門バッチを呉れた。学生たちに交じり、その気分に染められながら歩く。「人見記念堂」の前には文豪トルストイの銅像。台石には「出身地に"愛と理解と調和"に立脚する学校を開設したトルストイの精神に共鳴して人見夫妻は本学を設立した」とあった。その先のヒマラヤ杉を木陰にして二つの碑が並ぶ。
   一つは、詩人・河井酔茗(1874−1965)の詩碑で
「空には 新しき光 人には新しき言葉あれ」と詩「新しき言葉」の最後一節が高さ1m、幅1.5mほどの黒御影石に刻まれていた。達筆の自筆だが彫が浅く、かつ黒い石に光が反射して判読に苦労した。酔茗は生地・大阪から上京後、近くの太子堂に居住し、浪漫的抒情詩人として活躍した。戦後日本詩人クラブの本部が当校に置かれた縁でここに詩碑がある。昭和36年に作者の米寿を記念し、その詩業を讃えた建碑である。
    もう一つは、当校が建碑した記念碑で、近代文化の発祥とともに、「詩」と称する一分野を樹立した近代詩のパイオニア的存在の人々の顕彰碑である。碑面に
「新体詩祖之碑」と記された記念碑の裏側には「明治15年刊行"新体詩抄"選者.外山正一・井上哲次郎・矢田部良吉」とあった。 学生たちは、もう見慣れた碑なのか、遠い昔の人には関心がないのか、振り向きもしなかった。校内の銀杏は秋の饗宴の準備に忙しそうであった。
   三軒茶屋から懐かしい玉電・世田谷線に乗った。小さな電車は密集した家々の間をすり抜け、黄色い花々を避けながら走った。北原白秋の歌碑を訪ねるために上町で降りた。女性の車掌の「ありがとうございました」の声が新鮮だった。
   白秋の年譜を辿ると、「大正10年に佐藤菊子と結婚し、翌年長男隆太郎が誕生。三度目の結婚で漸く家庭的安息を得た。大正15年には小田原から、東京に戻り、安定した旺盛な文筆活動が続いた」とある。東京で最初に住んだのが若林3丁目である。40歳半ばの昭和3年からの充実した三年間で、「白秋全集18巻」を刊行するなど偉業はピークを迎えた。この縁で、ここ上町には二つの歌碑が建つ。
   「世田谷通り」を横断し、天祖神社の境内を抜けると、「ボロ市通り」は直ぐであった。世田谷信用金庫本店は簡単に見つかった。店前には、当金庫が創立50周年記念の昭和46年に建碑した横長の歌碑がどっかりと腰を下ろしていた。碑面には
「ぼろ市に冬はまづしき道のしも 桜小学に通ふ子らはも」とあったが、残念ながら白秋の達筆ではなかった。
   歌碑の撮影に狭い通りを横切ると、「世田谷代官屋敷跡」の記念碑と解説板。それには「江戸期、当地の大場氏は彦根井伊藩の所領であった世田谷の代官を務め、明治維新まで代々世襲した。江戸中期の母屋の建物(70坪)と萱葺きの表門が現存する。広い庭内はいま尚武蔵野の面影を残す」と案内されていた。なるほど、道路には大樹が覆いかぶさり、その一角だけが時代から取り残されていた。  

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