市の中心へ引き返す。4条8丁目の旭川信用金庫前で井上靖文学碑を見る。御影石には旭川開基百年を記念しての詩「私は十七歳のこの町で生れいま、百歳の、この町を歩く。・・・・ああ、北の王都・旭川の、常に天を望む、凛乎たる詩精神。それを縁どる、雪をかぶったナナカマドのランプ、あの赤い実の洋燈」が刻まれていた。
  *井上靖 明治40生−平成3没 84歳。旭川市春光2区6条の第七師団の官舎で生まれる。毎日新聞記者、昭和25年「闘牛」にて芥川賞受賞、「敦煌」「天平の甍」「しろばんば」など多くの代表作。
   時計はもう14時半。蘆花の探訪に予定以上の時間がかかったので、とりあえず遅い昼食。計画を練り直す。ユウカラ工芸館(宮柊二歌碑・山頭火句碑)の見学は諦めて、三浦綾子文学館だけに絞る。
   美瑛川と忠別川の二つの川に挟まれて「西洋木の実験見本林」が広がっていた。ベストセラー「氷点」の舞台として一躍有名になった場所だ。その入口に建つ記念館は、さすがに大勢のファンを持つ三浦綾子だけあって、訪れる人も多い。ゆっくりと館内を見学し、文学碑のある林の中や美瑛川の岸辺など散策。 逆光の文学碑。碑には「氷点」の冒頭の一節「風は全くない。東の空に入道雲が、高く陽に輝いて、つくりつけたように動かない。ストローブ松の林の影が、くっきりと地に濃く短かった・・」が自筆で彫られていた。撮影に苦労しながら時を過す。鬱蒼とした林には夕暮は早かった。「風と青空とタンポポ」がお供の一日は歩き疲れて終った。
  *三浦綾子−1922年旭川市生。旭川市立高女を卒業後、小学校教員。肺結核とせきついカリエスで13年間闘病生活。この間にキリスト教への関心を深め、52年に受洗。64年、朝日新聞社の1000万円懸賞小説に「氷点」で当選。一躍注目の作家となる。「原罪と神の許し」が三浦文学を貫くテーマ。「氷点」「積木の箱」「塩狩峠」「泥流地帯」などが代表作。82年に直腸がん、92年にはパーキンソン病。生涯病気と闘いながらの作家生活を送る。1999年10月12日死去。77歳。
     
  (旭川市神楽:三浦綾子文学碑)     (旭川市北門中:知里幸恵文学碑)    (旭川市四条通:井上靖詩碑)

<美瑛・花の滑走路に降り立つ>
   大雪山旭岳も早起きだった。刻々と変る山を眺めながらの朝食もそこそこに、美瑛行きの鈍行列車に飛び乗る。直ぐに、車窓には「ジャガイモの白い花」「麦秋の黄色」「稲の緑」が現れて、「美瑛のパッチワーク風景」の前哨戦が始まる。
   美瑛の駅舎は素朴な石組みで風雪に耐えられる頑丈な造り。駅前に予約しておいた車が出迎え。
   「これから2時間お世話になります。上富良野の三浦綾子文学碑以外はお任せします。美瑛の風景を堪能させてください」とお願いする。
   「観光バスでは行かない場所もご案内いたしますよ」と女性運転手が車を出しながら嬉しい返事。
   駅付近の家並みを抜けると、5分ほどで「せるぶの丘・花園」。ひまわり、ラベンダーを始として広大な丘一面は花々で埋め尽くされていたのに仰天する。
   「最初に、この町一番を見せてくれたのですね」と観光写真でお馴染の風景にシャッターを押し続ける。 数人が散ばって丹精を込めている。これだけの花園を管理する苦労も大変だし、それを無料で解放するのでは、一体、どのようなマネジメント(町の援助はなく青年達の奉仕)になっているのか不思議であった。観光バスに来てもらって、沢山のお土産を買ってもらう以外の収入はなさそうだし・・。お土産も買わないのでは申し訳ない気持ちであった。
   花の後は、広大なスロープに広がる、名物のパッチワークの畑の数々をめぐるドライブ。 「セブンスターの丘」「マイルドセブンの木」「ケンとメリーの木」「親子の木」などはCMで使われたお馴染の風景。何れも緩やかなスロープに拡がる畑と青空を背景に風雪に耐えて立つ木々との組み合わせ。名前はあってもそんな標識は何処にもない。
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