−旭川・美瑛・富良野・芦別−花の旅−2004 初夏−

                      また風が吹いてゐる また雲が流れている 明るい青い暑い空に・・・
                       小鳥のうたがひびいてゐる 花のいろがにほってゐる(立原道造「虹とひとと」)

<タンポポの旭川で文学碑を巡る>
   熟年のレジャー客で満員のJALは、西洋タンポポの絨毯の上に降りた。羽田は夏の初めだったのに、北の大地にはもう秋の雲が広がっていた。 直線の長い道路が北海道に来たことを告げる。そこには白樺の若葉とラベンダーの紫色が陽射しを浴び、遠くに光る旭岳には所々雪が残っていた。若草に萌える畑の緑と麦秋の黄色のコントラストに見惚れている内に旭川の駅に着いた。
   真っ先に、アイヌの文学を伝え残し、19歳の若さで世を去った知里幸恵(1903−1922)の文学碑を訪ねる。碑は北門中学の校門脇(旧居跡)に広がっていた。中原悌二郎受賞の彫刻家・空充秋氏が「小さな滴一つでも素晴らしい力を、夢を持っているというアイヌの教えを表現した」と意図したこの碑には、「銀のしずく降る降る まはりに 金のしずく降る降る まはりに」と「アイヌ神謡集」の一節が刻まれていた。今まで見た文学碑の中でも屈指の造型であった。旭川についていきなり頭を殴られた気分であった。 そのせいか、この後、井上靖や徳富蘆花の訪碑は迷いに迷った。
   井上靖記念館で車を捨て、簡素で美しい記念館を訪ね、そこから1kmほど炎天下にしては爽やかな道を生誕地跡まで歩く。尋ね尋ねしてようやく目的の「井上靖通り」に着く。守備隊がイラクに出かけて留守中に、西洋タンポポに占領された緑地帯。運良く、その中にふみ夫人撰文の記念碑を発見。
   タクシーを拾い、旭川実業高校への坂を徳富蘆花と立原道造の碑を求めて登る。とてつもなく広い敷地を持つ高校。玄関に佇つと前面に大雪山連峰が目の前。「この風景だけでここに学ぶ諸君の幸せがある」と印象をメモする。事務室で来意を告げ、二つの碑の所在を問う。同じ場所にあるという。
   体育館の脇には、小説「寄生木」の主人公・小笠原善平を偲んで詠った徳富蘆花の歌碑(「春光台 腸(はらわた)断ちし若人の 偲びて立てば秋の風吹く」)。しかし、一番期待していた立原詩碑は見当たらないし、「寄生木」記念碑もない。事務室に引き返し再度教を請うと、先程のは勘違いで、「道造碑は坂下、蘆花記念碑は800mほど先の林の中」だという。
   高校の裏門を抜けて、教えられた林の中(公園と地図にはあるが実態は雑木林)に熊笹の細道を辿る。白樺・ブナが中心の雑木林は訪れる人なく「熊が出る」のでは・・・と気味悪い。生れたばかりの虫が幾つも空を目指して舞う。2m程の高さに赤い布を巻きつけた細い棒が積雪の高さを教えてくれる。
   ゆうに1kmは歩き、ようやく教えられた旭川市街を見下ろす展望地に着くが碑はない。此処まで来ては引き返せない。見渡すと、熊笹に埋まりかけた「徳富蘆花記念碑まで300m」の小さな標識。後ひと分張りだ。やっと、二つ目の小さな展望地の中に小さな石碑を発見。
   明るく開けた方を背にしているので碑文は読みづらいが「徳富蘆花 寄生木 ゆかりの地」とある。公園下を通る車の音だけが響く。明るい向こう側は青空と白雲が見事なコントラスト。それに向って白樺の新緑が伸びる。駆け抜ける風に、うっすらと滲んだ汗を冷ます。
*徳富 蘆花(とくとみ ろか) 明治元年生れ、(1868−1927)昭和2没60歳。 熊本生。名は健次郎。京都同志社に学び熊本英学校で教鞭。明治22年東京民友社に入社し35年まで勤務。 かたわら「不如帰」著し一時代を画す。「思ひでの記」「自然と人生」「黒潮」「富士」「みみずのたはごと」他著。 旭川には明治36年.43年と取材し、当地を舞台に「寄生木」を書く。
   帰りの道の足取りは軽い。高校に戻り、坂を下る。車で脇を通ったはずの道端に看板調の立原道造詩碑(「それは 花にへりどられた 高原の/林のなかの草地であった 小鳥らの/たのしい唄をくりかへす 美しい声が/まどろんだ耳のそばに きこえてゐた・・・」詩「草に寝て」全節を当校生徒が揮毫)が真新しく光っていた。石の詩碑を想像してきたのに立看板の詩碑で拍子抜けしたが、旭川の市街を下に、大雪山と向き合う絶好の立地には満足した。
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