<神威岬−風の旅>
   古平から神威岬までは一時間のドライブ。
   冬を前にした北の海は積丹ブルーに輝き、風は強く、波は白い。最近出来た駐車場から木の門を潜り、100mほどの高さの断崖に足を踏み出す。従姉妹が遥か下の海岸線を指して「叔母様は、以前、あそこから登って来たの」と昔の凄まじさを教えてくれる。
   馬の背の断崖に細い道が先端の灯台まで800mほど続く。普通なら10分もかからない距離を30分も強風に煽られながら進んだ。幼い頃の台風の恐怖体験が身に染み付いている私には、最初の100m位でもう「行こうか 戻ろうか」と思案した。そして歩き出す。それは「歩く」というより両脇の柵に捉りながら「這い出す」と言った方が当たっている。身をかがめ、風の下を潜って行くより他ないのだ。そしてまたしばらく強風に吹かれると、「行こうか 戻ろうか」と風に相談を繰り返す。
   先端の「神威岩」を見下ろす灯台に着く。海面に並ぶ岩礁と一本の高い岩塔が直下の海面に白い波に取り囲まれて並ぶ。この見事な造形を見たさに、台風並みの強風の中を必死の思いで、細道を辿ってきたのだが、記念撮影もおっかなびっくり。出来上がった写真には「余裕たっぷりのポーズ」とキャプションを付けたが、顔は引きつり、両手で柵にしがみ付いていた。(非公開!)
   「北海道・日高の酋長の娘チャレンカが、源義経を慕って神威岬まで追って来た。だが、義経は船出した後。彼女は悲しみのあまり岬から身を投じ神威岩に化身した」との伝説が語り継がれている。が、ここには乙女の歌声はないし、訪れた人も声を失う。ただ、シベリアから来た風の声ばかりだ。
   あの渡島当別の「静かな神」は何処に行ったのか。ここには「荒れ狂う自然界を力でねじ伏せる神」が、人を近づけず、天地の総てを従えて、悠然と海の上に立っていた。今日でこの有様、短い秋が過ぎれば、荒ぶる神は人間の立ち入りを完全に拒絶するに相違ない。
   穏やかな秋の日差しの中に帰り着き、入口の木の門を見上げる。出発の時に見た「女人禁制」の文字の横に、地獄の入口の言葉「ここを過ぎれば悲しみの街」(ダンテ「神曲」)が書き加わっていた。
   「渡島当別の修道院で聞いた出発の鐘」も「勇払の原野で聞いた道造の激励の言葉」も、凄まじい風に、早くも、消されてしまいそうであった。
   老いの季節とは、「大切なものを、次々に剥ぎ取られる季節」「大事なものを、次々に捨てねばならない季節」、そんな季節は必ずこの荒ぶる神が一緒なのだ。果たして、体力の衰える中で、一緒に歩けるだろうか。しばらく、地獄の門を前にロダンの「考える人」のような深刻な顔をしていた。
   神威岬滞在はたった一時間強にすぎなかった。たったそれだけの時間が、一日中、嵐の中にもまれ続けたような強烈な印象を残し、老いの季節の厳しさを見せつけた。暫らく興奮を冷ませて、短い秋の日に追っかけられながら、札幌に向って走り始めた。
 帰途、積丹ブルーの海にオロロン鳥を見たような錯覚を覚えたのは、老いの季節の旅の故であったのか。その鳥・ウミガラスは神威岬の遥か北の天売島にのみ十数羽生息する天然記念物で、「オロロローン」と鳴くという。
   その夜、「貴方が『見る旅』に飽きて『風を感じる旅』『ブルーに染まる旅』を求めておいでなら、是非、積丹半島に足を運んでください。そこには『それはもう、行った人でなければその素晴しさは解りません』と伝えたい風景が待っています。絶対にお勧めできる風景です」「貴方の武装が如何に頼りにならないか教えてくれます。気軽にはこの『悲しみの門』を潜らないで下さい」と複雑な気持ちのメモを残した。
 
<ひとつの旅の終りに>
   
札幌には二日間滞在して市内のあちらこちらに散ばる文学碑を巡った。
   北の大都会・札幌は、北海道の人間を根こそぎ集めたようで、ごった返していた。大通り公園は花々まで道内から集まって賑やかであった。ビルのショウウインドーには「コンサドーレ札幌 J・1昇格おめでとう」の装飾が溢れていた。時計台やTV塔をバックに記念撮影に励み、焼きとうもろこしを頬張り旅人気分も味わった。
   長年憧れていた、隣の当別町の本庄睦男
「石狩川」文学碑も、小樽の市街にも足を運んだ。そこでは、運河を一瞥しただけで、石川啄木・小林多喜二の文学碑の探訪に励んだ。
   だが、積丹ブルーの海の色に染まった眼には、人智を誇らしげにするこれらの都会の風景は何処にでもある観光地の色彩が目立ち、北海道に求める旅情は味わえなかった。

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