函館・上磯の後、大沼公園と登別温泉で紅葉狩りをしながら文学碑を訪ね、室蘭と勇払に縁の人々の碑を巡り、札幌へと向った。この探訪については稿を改めて記すことにする。
が、二つだけ書き留めたい。 一つは、広大な勇払原野に取り残された浅野晃の詩碑を見つけた時、「
さへぎるものもない 光の中で おまへは 僕は 生きてゐる ここがすべてだ!・・・僕らのせまい身のまはりに(詩「また昼に」)」と立原道造の詩句が、老いを歩き始めた私を力づけてくれたこと。
もう一つは、札幌のホテルに迎えに来てくれた家内の従姉妹と夜の街に繰り出し、「私は幼い時、あの渡島当別の修道院の隣の牧場で育ち、何時も修道院に牛乳を届けに行きましたよ。あの前庭が私の遊び場だったの」との思いもかけない従姉妹の回顧に始って、夜遅くまで時間を忘れたこと。
修道院の鐘の音を合図に、幾つもの土産を鞄に詰めて、「ウイルスと一緒の旅」は後半に進んだ。
−積丹半島・風の旅−2000年 秋−
「逝いた私の時たちが 私の心を金にした
傷つかぬやう傷は早く復(なほ)るやうにと」(立原道造「夏の弔ひ」)
<小樽・余市・古平に文学碑を拾って 神威岬へ>
札幌のホテル。早朝TVを点けると「駒ヶ岳噴火・鹿追町に降灰」のニュースが飛び込んできた。昨日見たばかりの堂々とした山容が甦ってきた。大自然の、何のことなく繰りかされる、ささやかな営みが人間にとっては大事件なのだ・・・と今日予定の神威岬の自然に思いは飛んだ。
9時。従姉妹の運転で積丹半島を巡る長距離ドライブに出発。
札幌と小樽市街を抜けて、小樽郊外の祝津海岸に向う。 往時は鰊漁で賑わった所。鰊御殿の脇から眺めると八田文学碑は断崖の上の青い海の上に浮かぶようにあった。大きな造形の碑には「
夏休みになると おれたちは道ばたの ざっぱ木を拾い・・・(詩「がんぜ」一節)」が刻まれた美しい詩碑であった。
再び国道5号線に戻り、今は小樽市になった塩津部落を通る。部落を見下ろす「ゴロタの丘」には当地出身の伊藤整の詩碑(「
私は浪の音を守唄にして眠る・・・」詩・「海の捨児」一節刻)があるが、以前に訪ねていたので、パスして隣の余市町に急ぐ。
積丹半島の付根の小さな町・余市。私達の年代にはお馴染の「ニッカウイスキー」の町。若い人達には宇宙飛行士・毛利さんの出身地で「宇宙記念館」のある町。そして私には幾つかの文学碑。町の中心部の余市水産博物館や明治神宮に碑を見て、余市に来るきっかけとなった幸田露伴の句碑(「
塩鮭の あぎと風吹く 寒さかな」)を町の外れの水産試験場の脇に見つけた。あとは走り過ぎた。
* 幸田露伴−慶応3年(1867)−昭和22年(1947)。江戸下谷三枚橋横町に生。明治18年逓信省電信修技学校卒業し北海道余市の電信局に赴任。二年後、文学を志すため余市を脱出。この時のことを綴ったのが『突貫紀行』。明治を代表する文学者で代表作は『五重塔』『蒲生氏郷』など。
(小樽祝津:八田尚之詩碑)
(小樽塩谷:伊藤整詩碑)
(余市水産博物館:幸田露伴句碑)
余市を過ぎると車窓の右手は断崖と海。積丹ブルーと呼ばれる鮮やかな青色が始まる。「ソーラン節」の発祥地だ。鰊の漁場として賑わった古平も、今は、たった人口4千人の小さな町。最近では崩落事故で「古平トンネル」が有名になったが、普段は忘れ去られた町。
当地生れの詩人・吉田一穂の詩碑を幾つか訪ね、山手の禅源寺で「五百羅漢・油絵」や句碑を見たあと、町の「港寿司」で昼食。さすがに漁業の町だけあって味は絶品。これから訪れる「神威岬」のことを話すと、主人は「それはもう、行った人でなければその素晴しさは解りませんよ」と期待を一層膨らませてくれた。
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