<別天地の修道院で出発の鐘を聞く>
所々に開墾地のある山道を進むと急に広い場所に出た。小さなロータリーを曲がると修道院への見事なポプラと杉の並木の坂道が延びる。車はその中を両側に広い牧場を抱えながら一気に登る。
「何という静かな所なのか」と小さな声で別天地に着いた第一声を発した。紅葉は今を盛りに燃え上がり、松の大木を炎に包む。楢の黄色と楓の赤とが交互に並べられた中に三木露風の詩碑がどっしりと座っていた。
やっと念願の詩碑に出会えるかと、逸る心を押さえながら、そっと近づく。 「
日は輝やかに 沈黙し 時はおもむろに 移りけり 美しき地上の 断片の如く 我命は
光の中に 呼吸(いき)づく」(詩「呼吸」一節・詩集「寂しき曙」所収) 神の前での蘇生を詠った神秘的な詩句が、雨模様になってきた静寂の中に浮かび上がっていた。
巡り会えた感激を冷たい雨が濡らし始めた。季節は足早に走り抜けて、まもなくここは雪の中に埋まってしまうのか。そう思うと、急に周りの風景が今年最後の輝きを見せ始めたように感じられた。
暫らくは、その修道院の前庭の詩碑の周りを散策して、緩い坂道を登って正門に近づく。入場は今でも男子のみで、それも複雑な手続きが必要だから、今日は外から覗くだけ。
荒涼たる原野を拓き、「祈れ、働け」をモットーに築き上げた、赤茶色のレンガの建物が三階建ての尖塔を中心に翼を拡げて建っていた。鉄柵に顔を押し付けて暫らく見入る。誰も居ない。建物の中の小さな咳さえ聞こえてきそうな静けさが聖地に張り詰めていた。
露風が詩集「良心」に「大地は神の呼吸」と記しているように、キリスト教者でなくとも、神の気配が感じられる。厳しくも和やかな空気に充たされた空間だ。バッハの音楽が欲しかったが信心無き者には無理であった。しかし、私の「新しい旅」への出発の鐘の音が微かに聞こえたのは、幻聴だったのだろうか。
修道院の裏手に周ると、そこは小さな工場らしきもの。有名なクッキーを作るところなのだと勝手に思い込む。さらに奥に辿っていけば日本版「ルルドの洞窟」もあるが、雨中の急坂に恐れをなして、引き上げた。
(函館青柳町:啄木歌碑) (渡島当別修道院:三木露風詩碑) (苫小牧市勇払原野:浅野晃詩碑)
*三木露風略歴−明治22年に兵庫県龍野市に生。早稲田大学文学部卒。明治42年には詩集「廃園」を刊行。同年に処女詩集「邪宗門」を発表した北原白秋とともに、いわゆる「白露時代」を迎える。抒情詩から出発し象徴詩で頂点を極め、宗教詩に移る。山
田耕筰と組んだ童謡の分野でも傑作を残す。中でも「赤とんぼ」は万人の愛する童謡として歌い継がれている。修道院を去って上京後は三鷹市に長く在住し活躍。昭和39年自宅近くで輪禍に遭遇し、76歳の生涯を閉じる。
*露風とトラピスト修道院との関係−大正4年・27歳の時に始めてトラピスト修道院を訪問。その後、数回の訪問の後、大正9年5
月当時の院長・岡田普理衛(仏人・プーリエ)の強い要請によって、修道院の講師に就任し、修道院の坂下の「講師館」(詩碑の設置場所)に夫妻で居住。生活は早朝起床、午前中は授業(文学概論・美学概論など)。午後は労働・思索・瞑想・作詩。夜は7
時就床。関東大震災を期に体調を崩す。大正13年約4年間の修道院生活にピリオド。この間に出された作品は「信仰の曙」「修道院詩集」「象徴詩集」。有名な童謡「赤とんぼ」「野ばら」もここからは発信。(森田実歳著「三木露風研究」他数冊より)
駐車場に着くと、運転手が「寿楽園について問い合わせて見ました。帰りにもう一度寄ってみましょう」との嬉しい話。車は山の中に引き返す。「この辺の筈だ」と細い横道に入り込んでは、「いや、ここではない」と教えられた目印を探している様子。私も何度か車を降りたが、道は全て林の中に消えていた。
「運転手さん。もういいですよ。行きましょう」と告げて車に乗り込む。「すみませんねえ。廃園になってから一度は行った事があるのですが、すっかり様子が変っているようで」と何度も何度も同じ事を繰り返した。
上磯駅に戻った時にはお昼を過ぎていた。藤村文学碑は茂辺地の荒野に消えていたが、修道院の詩碑だけで充分に満たされていた。
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