*この小説には思い入れがある。小説は、明治維新の函館とコミューンに沸き立つパリを舞台にして、若い夫婦が日本にフランス料理を移入しようとした苦難の生涯を描いており、その舞台を訪ねて遥々パリのバスチューユ広場まで足を運んだ。函館は長い間の夢であった。
   ワインの酔いを涼しい風に当てながらホテルまで坂を下った。 「函館は横浜と同様、海の匂いの少ない、洒落た港町です。元気で旅を続けています」と絵はがきを書いた。その夜は、観光に一味スパイスを利かせた一日に満足したのか良く眠れた。

     (函館青柳町:亀井勝一郎碑)                  (函館大森海岸:石川啄木像)            (函館立待岬:石川啄木墓地)

<上磯町でドラマを見て、曠野に迷い込む>

   函館で修道院といえば「トラピスチヌ女子修道院」(明治31年開設)が著名で当地を訪れた人は誰もが行く。しかし、函館の近郊(西30km)には、それより先に建設された、もう一つの修道院があることはあまり知られていない。知っていてもそこまで足を伸ばす人は少ない。 私たちの目指したのはその「シトー派聖母男子修道院」で、詩人・三木露風に縁の場所であった。
   江差線の列車は函館湾に沿って進む。何処まで行っても函館山が海面に浮かぶ小島のように列車に曳かれて付いて来た。修道院へは「上磯」の二つ先の「渡島当別」が最寄り駅だが、そこから30分は山手に歩かねばならない。タクシーはないとのことだったので、二つ手前の「上磯」駅で降りる。27歳の時に始めて修道院を訪れた三木露風に倣って。
   「茂辺地の寿楽園を訪ね、渡島当別の修道院を巡りたいのですが」と運転手に告げる。
   「お客さん。寿楽園はもう随分前に閉鎖されたよ。果たして行く道があるかな」と心配な返事。 兎に角、行ってみる事にする。函館湾に沿ってしばらく走ると、内地から来た私達には珍しかろうと、 「お客さん。鮭の遡上を見ましたか。是非とも見てください。寿楽園への途上で少し寄り道をするだけですから」と誘ってくれた。願ってもない提案に案内を頼む。
   茂辺地の部落を貫通して茂辺地川が海に注ぐ。部落の外れでは数人の男たちが網を操る。浅瀬の川面が盛り上り、波立っていると見えたのが鮭の群れであった。その群れをカモメと鴉と数人の男たちが狙う。必死で浅瀬の川を遡ろうとする姿、それを阻止しようとする人間と鳥たち。壮絶な生死をかけたドラマ、凄まじいばかりの命の躍動、に息を呑む。息を呑みながらもシャッターを押し続けた。
   茂辺地の部落から海岸線を離れ、山の中に入って「寿楽園」を探す。 この辺りかと運転手は見当をつけて、林の中の細道に車を入れるが、行き止まり。「無理しなくても」と声をかけるが、地元の意地が許さない。「いや、確かこの先で曲がれば」と挑戦。そこもじゃがいも畑で行き止まり。そうだ、この辺りは「男爵芋」でお馴染の川田男爵がじゃがいもの栽培にチャレンジした所だと思い出しながらも、運転手の古い記憶だけが頼み。三度の試みも失敗に終り、私も運転手も諦めた。
   これほど「寿楽園」に拘ったには訳がある。そこは文学史上では重要な場所なのだ。 明治37年夏。島崎藤村は「破戒」自費出版の資金調達のために、妻(冬子)の実父である函館の秦慶治を訪ね、400円を調達した。この支援がなければ名作「破戒」が世に出るのは相当遅れただろう。秦慶治は上磯町出身で漁網問屋経営する富豪。この上磯にあった別荘が寿楽園である。因みに、冬子は東京の明治女学院卒業で、同校の教師だった藤村と結婚。こうした縁でこの寿楽園に島崎藤村文学碑が建てられたのだ。
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