美唄から最後の訪問地・岩見沢まで高速を走る。
   東山運動公園に当地出身で、長く神奈川に在住した中村武羅夫の文学碑を訪ねた。体育館の脇の雑木林の中はもう日暮れて暗かったが「誰だ 花園を荒らす者は」と特徴ある武羅夫の字で刻まれた文学碑は直ぐに見つけられた。
   近くのテニスコート脇には加藤愛夫の詩碑(「心に緑の森をえがき 清き湖をたたえ 明日を考え・・(交響詩「岩見沢」一節)」)が夕日を受けたルピナス(のぼりふじ)に囲まれていた。
   *作家中村武羅夫(むらお)−明治19年に岩見沢に生。22歳の時に上京。小栗風葉の門に入る。その後新潮社に入社し名編集長として活躍。碑文の「誰だ?花園を荒らす者は」という論文で、熱烈に文学の純芸術性を主張。「文芸春秋」の菊池寛と勢力を2分した評論家。昭和24年神奈川県藤沢市にて没。辻堂の自宅跡は「勘久公園」となり、同文の文学碑がある。
   札幌までの50kmをBMWですっ飛ばして帰った。
   この日一日、訪ねた数々の文学碑もさることながら、カロチンさんが用意してくれた「美唄の土産」は、この「いしぶみ紀行」のハイライトシーンの一つとなった。 「飾られていた谷川俊太郎の詩句を借りて 『ビバ 美唄!』と思わず叫んだ」「爽やかな風が 白樺のカーテンを揺らせ 緑と白銀の葉を撒き散らせた 初夏だ 白樺と一緒に天に向って手を伸ばす その青い色が欲しいと」「美唄の町の中心からは少し離れた山あいに見事な劇的空間があります。訪れていた人々を優しく包み、心を癒してくれるお勧めの空間です。貴方も是非訪れて下さい」・・・ホテルで書きつけたノートには、こんな美唄の印象が残されていた。
   
   今日訪れた街は、何れも過去の栄光を背負いながら、予想以上に寂れていた。「嘗て」と言う言葉しか残されていない所もあった。一方、劣化の危険に曝されたものに、新しい生命を吹き込み、甦らせた廃墟も見た。「栄光」と「廃墟」と「再生」は、紙一枚を隔てて存在し、繰り返すものであろう。
   「老いの道」も然り。避けられない「廃墟」への道を、如何に「再生」へと、ページを捲って行くか。その為に如何するか。「想像力と勇気と少しのお金」(C・チャップリン)は一つのヒントではあるが・・・。 答えはまだ見つからない。見つからないまま、もう5年も歩いている。

<小樽−寂しい訪碑>
   北海道の最終日。早朝の5時に「朝練」と称している、訪碑の散歩に出た。 見残していた石森延男・船山馨・久保栄など、札幌市教育委員会の建てた生誕地碑や青木存義の童謡碑「どんぐりころころ」(作曲者梁田貞の母校創成小学校に建立)を訪ね、大通り公園の有島武郎・石川啄木・吉井勇の碑を再訪し、二時間ほど歩き回ってホテルに戻り、小樽に向った。
   小樽市内に文学碑を訪ねるのは、もう三回目。
   函館についで古くから開かれた港町であり、北海道経済の窓口として賑わった小樽は、その経済的繁栄を背景に、文学・美術などの文化面においても大きな足跡を残している。小林多喜二、伊藤整をはじめ大勢の優れた文学者が、生まれ、育ち、活躍した街であった。
   初めて、旭山展望台に小林多喜二の文学碑を訪れたのは、今から30年近く前の雪の中。30基は越える文学碑も、今回幾つかを見て、その大半は訪れた事になる。
   この30年の時間は、小樽から文学を追い出し、来る度に、街は「見慣れた」観光の色を濃くして行く。そして、今や観光バスで「運河と赤レンガ倉庫」「寿司屋さん」「ガラス屋さん」「石原裕次郎記念館」を周る旅人ばかり。   「旭山展望台に行っても多喜二を訪ねる人は稀になったし、祝津の八田尚之に逢いに出かける人も少ない」と小樽の運転手から聞いた。啄木も多喜二も忘れ去られ、寂しい思いであった。そんな気持ちが冷めるまで、「いしぶみ紀行・小樽」は暖めておきたい。
   
   羽田に降り立つと、空気が違っていた。途端に、ほんの少し袖摺り合わせた北の大地が恋しくなった。私をいしぶみ紀行に誘い出した、独歩の「空知川の岸辺」の冒頭は「わずかに五日間ではあったが、余はこの間に北海道を愛するの情を幾倍した」で始まり、「余は今もなほ空知川の沿岸を思ふと、あの冷厳なる自然が、余を引きつけるやうに感ずるのである。何故だらう?」で終っている。「私の北海道」は、今なお、この「空知川の岸辺」のマジックに掛かっている。そして、「私の初恋アルバム」には、まだ沢山の余白が残り、埋められる日を待っている。(2004.08記)
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