<赤平から滝川へ 空知川の岸辺を歩く>
   歌志内から赤平市へ。独歩の歩いた峠の山道を、一気にトンネルで抜ける。その道が国道38号線に突き当たった所が、赤平市茂尻元町の交差点。その脇の高台にある小さな園地が「独歩苑」名付けられている。
   そこは、歌志内から厳しい山を越え、ようやく尋ねてきた北海道庁の役人に出会えた場所。「聞こえるだろう、川の音が。あれが空知川だ」と、案内の歌志内の人から教えられた目的の空知川の岸辺だ。今日も、若葉を茂らせた木々の間には、雪解けの豊富な水が広い川面を盛り上げていた。 川の音に変わりはなかった。
   「独歩曽遊之地」とだけ刻まれた石碑が、古い台石を残して新しい台石の上に高く聳え、取り囲む木々を従えて大空に存在を主張していた。「空知川の岸辺」の文学記念碑としては、将に、格好の場所にあったが、逆光で写真撮影に苦労した。
   独歩は赤平から滝川に至る空知川の岸辺を、新居の候補地として考え、「寂々寥々として横たわる見渡す限りの森林の中を時雨に濡れ、寂しさを堪えながら」探し回ったようだ。滝川から富良野に通じる幹線道路は空知川の岸辺を走るが、今は切り拓かれて、往時の面影はない。
   その道を、一路、滝川市向う。空知大橋の近くの滝川公園(砂川市にあるのに何故か滝川公園の名前)は、丹念に地図を検索してきたが、独歩のように迷った。12号線のバイパスは空知川大橋で公園の上を、あれよ、あれよと言う間に、通り抜けてしまったのだ。このままだと、日本一の直線道路で美唄まで行ってしまう。引き返すより無い。だが、空腹でこれ以上道に迷っては・・と滝川市街地に入り、昼食。
   地図をひっくり返して滝川公園の入口を探す。どうやら旧12号線を行くとよさそうだと見当をつけて出発。途中、文化センター脇で山本有三の文学碑(「たったひとりしかいない自分を たった一度しかない一生を ほんとうに生かさなかったら 人間うまれてきたかいが ないじゃないか・・」「路傍の石」一節を刻)などの碑を訪ねた。  
   入口を探して迷った末に、やっとのことで、滝川公園に辿り着く。が、人っ子ひとりいない桜樹と柳の木の広い公園。 頼りなげな蓮の花咲く池の畔に、独歩文学碑はあった。碑面に「空知川の岸辺」と作品名が記されただけのもの。苦労して辿り着いただけに「何だ。たったこれだけ」と拍子抜け。経緯も建立者も建立日もない。案内板の代りに、少し長いが経緯を記しておこう。
 *短編小説『空知川の岸辺』は、空知川の岸辺に新婚生活の拠点を求めてさまよったことを題材にした作品。壮大永遠の自然に対比して、人間の無力・はかなさが散文詩的に描かれる。 何故この辺鄙な空知川の岸辺を彷徨ったかは、「欺かざるの記」に詳しい。 明治28年、25歳の独歩は佐々城信子と出会い恋に陥る。二人は北海道で開拓民として自由な生活を夢見る。独歩は、函館・札幌、空知川岸辺と新天地を探し、信子を迎えに東京へ戻る。信子の両親の頑強な反対を乗り越え、漸く、徳富蘇峰の媒酌で挙式。「わが恋愛は遂に勝ちたり。われは遂に信子を得たり」と歓喜の日記を記す。だが、神奈川・逗子での新婚生活はピューリタンの独歩と派手好きの信子とでは上手く行かない。耐え切れない信子は家出。狂気の独歩は、苦労の末に彼女を探し出すが、病床の姿に愕然として離婚を決意する。たった一年間で、恋愛から離婚までの大騒動は幕を閉じる。 傷心の独歩は、もがきながらも苦難を乗り越え、作家・国木田独歩に成長する。北海道移住は諦めて、武蔵野の面影を持つ東京・渋谷村(現在の渋谷駅近)に住み、憧れの田園生活を獲得。名作「武蔵野」を産む。明治41年、肺結核で茅ヶ崎市の療養所・南湖院にて38歳の短い生涯を閉じる。茅ヶ崎球場脇には「永劫の海に落ち行く 世々代々の人のながれが僕の前に横たわっている」と小説「渚」の一節を刻んだ文学碑がある。
   もう一つのお目当て、石川啄木の歌碑(「空知川 雪に埋もれて 鳥も見えず 岸辺の村に 人ひとりゐき」)は更に奥まった所にあった。百年を越える開拓民の苦難の歴史を乗せて流れる空知川は、今日も水量豊に緩やかに流れ、ここで石狩川に合流して名前を変える。
     
      (三笠市:前田夕暮歌碑)              (歌志内市:国木田独歩文学碑)             (美唄市:林芙美子文学碑)  
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