道を挟んで奥の方にも「彩りの畑」。こちらは散策客も少ない。丘を登る。「カスミソウ」「矢車草」「ハマナス」「サホナリア」「コクリコ」・・・と花々がこれでもかこれでもかと顔を出す。「真赤なコクリコの群落に出会いたいとの夢が漸く叶いました」と忘れないようにメモを取る。
  *与謝野晶子の熱唱「ああ皐月仏蘭西の野は火の色す 君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟(コクリコ)」は忘れられない歌。この歌の碑を求めて、二度もパリ市内を走った。「パリの三越デパートに晶子の歌碑」との情報をにぎりしめ、息を切らせて階段を登ったり降りたり。散々、店員を煩わせたが判らずにすごすごと引き上げた。それから10年後にパリを訪れた時に、二度目の挑戦。ようやく、歌碑が「パリ三越百貨店エトワール」に移設されていることが判明した。が、訪問の時間がなく、またもや「がっかり」。未だに望みは叶っていない。因みに、コクリコはフランス語「Coquelicots」でひなげしの意味。
   名物の「野菜カレー」と「ビール」が花の色を一層引き立てた。飽きもせず、ひっくり返されたパレットの中を右往左往。写真を撮っては、付けるキャプションをメモする。結構忙しい。
   白樺の向うには十勝連峰。丘の中腹の農園からは国道を走る車がミニチュアカーのようであった。 この広大な大地には、かくも美しく武装しなくてはならない、北国の長く厳しい自然が隠されていることに想いが及んだのは老いの眼の故であろうか。

<芦別の山の中へ「雪をんな」に逢いに>

   彩り豊かなパステルのクレヨンで染められたまま、中富良野駅から鈍行列車の旅。「北海道のへそ」富良野駅で乗り換えて、芦別市に向う。 ゴウゴウと風が流れる長いトンネルが十勝平野と嘗ての日本有数の炭鉱地帯との境界線。トンネルを抜けると風景は一変し廃墟の街。数人の客が降り、数人の客が乗る。
   「夫婦滝と上芦別公園の二つを2時間ほどで巡って欲しい」と客待ち顔のタクシーに注文を出す。
   熟年の運転手はきょとんとした顔付き。そうだろう、夫婦滝は駅から20キロも離れた山の中なのだ。
   この文学碑の場所を地図で特定した時、「これは行ける所ではない」と諦めていた。日光の戦場ヶ原の奥の奥に葛西善蔵の文学碑を訪ねて以来、鎌倉の建長寺に住んで、今では忘れ去られた大正の私小説家の壮絶な生き方が気にかかっていた。芦別市に電話し、車で行けると聞いて、決めた。
   市街地を抜け、新城町までは快適な道。だが、そこからが大変で、滝までの残り5kmは幌内川に沿った山の中の砂利道。対向車が来たら・・・と心配になる細い道。何とか無事に滝に到着するが、ここで道は途絶えていた。
   緑一色の山腹を、滝は「夫婦滝」の名の由来通り二筋になって流れ落ちる。傍らは、「夫婦滝公園」とは名ばかりの小さな園地で、そこにどっしりと「葛西善蔵・雪をんな・文学記念碑」が木漏れ日をあびて座っていた。
   生誕百年を記念して建てられた文学碑である。碑陰には「・・・積もった雪は股を埋めた。吹雪は闇を怒り、吠え狂った。そしてまたゲラゲラと笑った。『どうぞお願いでございます。 ちょっとの間この子を抱いてやって下さい』この時、この世ならぬ美しさの、真白な姿の雪をんなは、 細い声をしてこう言って自分に取りすがった。」と小説の一節が刻まれていた。
   世に出る前の善蔵が伐採職人としてこの地で働いた時に構想した「雪をんな」は「大吹雪の夜に天から降りる」雪女に託して、厳しい冬の季節に、別れた妻と幼子を偲んだ好短編である。
   山の妖気が漂う中に滝の音だけが不気味に響く。積雪の冬には雪女が出て来てもおかしくない。が、そんな季節には、到底来ることは出来ない。冬は雪の中に寂しく残され、夏の季節にしか見てもらえない碑。そんな碑を訪ねて遥々来たのか、と胸が締め付けられた。文学碑を取り囲む緑は「椎の若葉に光あれ 親愛なる椎の若葉よ 君の光の幾部分かを 僕に恵め」と刻まれた生れ故郷弘前市に近い碇ヶ関村の三笠山公園にあるという詩碑の碑文を思い出させた。
   *葛西善蔵(1887-1928)は私小説家として出発し私小説家として終わった。その短い生涯は、作家として著名でありながら寡作であり、遂に「酒と貧窮」から抜け出ることが出来なかった。代表作「子をつれて」「おせい」「哀しき父」「湖畔手記」。作家・伊藤整が「身も心も退廃の果てまでいった人間」と評したように、貧乏、放浪、病苦、酒、奇行の破滅的生涯は伝説化し、数多くの逸話と共に、昭和3(1928) 年、41歳で逝く。
   芦別市街に戻り、空知川河畔の上芦別公園に山口青邨の句碑を訪ね、滝川行きの各駅停車に乗った。芦別駅に下車して2時間たったが、この間、根室本線を走る列車は一本もなかった。嘗て、私たちを養ってくれた大炭鉱は煙となって緑の中に消えていた。街には人影も少なく、駅構内の広大な石炭積み出しヤードは西洋タンポポの花園になっていた。滝川で特急に乗り換え、札幌に入った。
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