(神戸市・須磨寺の句碑:鳥羽市・金胎寺の句碑)

 
3月21日須磨を発ち、23日京都で杜国と別れた。儚い夢の終りであった。
  江戸を発ってから約半年の旅は1000kmを超える長旅であった。杜国と一緒の後半の旅は、舟や駕籠や馬に乗ったこともあったが、半分以上は歩き通して来たと、几帳面な杜国は記録していた。 今度の旅で足腰は次第に衰えてきたことも判った。
  「老い」とは、若い生命力の衰えを感じ、別の生命力に目覚めるということだ。この自覚を大切にして行きたい。新しい生命力は新しい感性を持っている筈だ。その感性で見ればきっとまた新しい発見があろう。人の心に残り、言霊として住み着く句も詠めよう。 西行法師への憧れの旅は、字義通り「西に行く旅、西方浄土への旅」に他ならない。時が止まることがないように、人生の旅も土に還るまで西方浄土を目指して歩き続けねばならない。たとえ、兼好法師が「死は前よりしも来たらず、かねてうしろに迫れり」と書いているように、私の「旅の終り」が不意に後からやってくるとしても・・・。


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* 「老いの小文」後日談1.「その後の芭蕉」
  芭蕉は京都で杜国と別れた後、名古屋、大津などで弟子たちを訪ね歩き、8月名古屋を出発、「更級紀行」の旅をしながら江戸に帰った。休む暇なく、道祖神の招きにあって、翌、元禄2年春3月「奥の細道」の旅に出た。命をかけた旅であった。 名作「奥の細道」を執筆中の元禄3年、杜国の訃報を滋賀県・大津で受け取る。追悼句「抱きつきて共に死ぬべし蝉の空」を詠む。元禄6年、畢生の大事業・「奥の細道」完成。旅の後始末を待っていたかのように、翌、元禄7年10月大阪で辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句を詠み、51歳の生涯を閉じた。
  「笈の小文」の旅のメモはとうとう紀行文にはならなかった。
   中西啓「芭蕉カルテ」によれば、芭蕉の身長はほぼ五尺三寸前後、アレルギー体質に加えて気管支炎、消化器系の慢性疾患と痔疾に悩まされた病弱体質の人であったらしい。そんな彼が生涯を過酷な旅に暮らしたことは驚きである。

* 「老いの小文」後日談 2.「その後の杜国」
  杜国は元禄3年3月12日、34歳の若さで生涯を終えた。芭蕉と京都で別れて伊良湖の保美に帰り2年を経ずして永眠したことになる。当地での杜国の評判はすこぶる良く、旧居跡には句碑「春ながら名古屋にも似ぬ空の色」があり、近くの潮音寺には墓と伊良湖に遊んだ三人の句碑「麦はえてよき隠家や畑村(芭蕉)冬をさかりに椿咲く也(越人)昼の空のみかむ犬のねかへりて(杜国)」があって、どちらもよく整備されていた。

                 
           (渥美町・潮音寺の杜国墓と句碑:同:旧居跡の句碑:渥美町・杉浦明平旧居:長野軽井沢町:立原道造詩碑)

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