春の日差しが弱くなってきて、風が出てきた。町とは名ばかりの静まりかえった宿場を抜けて、少し離れた菩提寺の円楽寺に今日最後の歌碑を訪ねた。大銀杏の樹がある寂れた寺で、ここの桜も葉桜に変っていた。本堂左手前の小さな歌碑が歌人の恵まれない生涯を物語っているようであった。
 
「私が死んでしまえばわたくしの 心の父はどうなるのだろう」
 「捨てるために生きた」放浪の生涯であったが、「骨壷の底にゆられて」帰ってきた方代は、この円楽寺の墓に父母と共に眠っている。 墓には「われ一人歌に志し故郷を出でて、いまだ漂泊せり。壮健なれど漸くにして年歯かたむく。われもまたここに入る日も近からん。心しきりにせかるるまま、山崎一族の墓」との碑銘が刻まれているという。
 「さて、デラシネ(故郷喪失者)よ 我が身は如何せん・・」とこの碑銘を思い出しながら立ちすくんでいた。お墓にはお参りするかどうか迷ったが、広い墓地で探すのは容易でないし、予定を大幅に超過しているので甲府駅に急いだ。
  夜遅く家に帰り着いても、まだ桃源郷の桃色の雲の中を彷徨っていた。

−山崎方代の生涯といしぶみ−
   山崎方代という伝説の歌人がこの寒村に連れてきたので彼について書いて置かねばならない。 「神奈川の文学碑」(仮称)の登場人物として欠かせない昭和の放浪歌人。種田山頭火、尾崎放哉につながる伝説の人という。最近はその歌と生き方に惹かれる層が増えて、毎年、鎌倉・瑞泉寺で開かれる「方代忌」は盛況とか。
  大正3年、山梨県東八代郡右左口村(現、中道町)の貧農に生まれる。方代(ほうだい)という変った名前は本名。「生き放題、死に放題」の謂と本人が言っていたとか。小学校卒業後、家業の手伝いをしながら歌を作り始める。昭和16年、27歳で召集。南洋の戦地で砲弾の破片を浴び右眼失明、左眼も殆ど見えなくなる。帰還するも職なく苦労を重ね、横浜の姉に頼りつつ放浪の生活。どん底でも歌だけは捨てずに不自由な体で生き抜く。
   昭和30年
「わからなくなれば 夜霧に垂れさがる 黒きのれんを 分けて出でゆく」(スポーツ広場歌碑)を収めた第一歌集『方代』を自費出版。歌壇の反応は少なかったが歌人・会津八一には絶賛された。歌集出版を機に鎌倉在住の歌人・吉野秀雄に師事。
  昭和40年、姉の死去で天涯孤独の身となる。アパートの留守番、農作業の手伝いをして口を糊する。 昭和47年、鎌倉・鶴岡八幡宮前にある鎌倉飯店の店主・根岸p雄氏が、鎌倉市手広の自宅に六畳一間の家屋を建て方代を迎える。名付けて「方代艸庵」。ここが終の住家となる。そこは住宅街のはずれ、外から窺うと小さな屋根が見え、手前には人目を避けるように歌碑が小さく蹲っている。
 
「ここらあたりは相州鎌倉郡字手広 艸庵の札下げて籠りたり」
 昭和49年、
「こんなにも湯飲茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり」(スポーツ広場歌碑)。を収めた、歌集『右左口』を刊行。これによりようやくその歌が世に知られるようになる。
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