−歌人・山崎方代の故郷へ−
   一宮町から隣の八代町に車を走らせ、郷土資料館で長塚節の歌碑を見て先を急ぐ。
   
「甲斐人の 石臼たてて 粉に砕く 唐黍か 比の見ゆる山は」
   ここからは近道の山越えをして中道町に入る。途中の境川村は俳人・飯田蛇笏の生誕地であり、また村外れの大黒坂には深沢七郎の小説「楢山節考」文学碑がある筈だが残念ながら峠近い山の中らしいし、場所も充分特定できなかったので諦めた。
  「中道往還」は甲府から中道町を通り、富士山麓・精進湖に抜ける甲斐の古い街道の一つで昔は賑わったらしい。急坂が富士山の外輪山を登って行く直前に、「右左口の里・民芸館」があった。誰もいない。前庭に淋しそうに山崎方代の歌碑が座っていた。
  小松石に額を作り、  
「桑の実熟れている 石が笑っている 七覚川が つぶやいている」 とこの付近の風景を素直に詠んだ歌が刻まれていた。
  旧街道筋の古い町並みが残る「宿」という在所のはずれ、山が迫ってきた所が山崎方代の生誕地であった。1mほどの高さの白御影石の記念歌碑が立っていた。
 
 「ひる前にランプのほやを磨きあげ いつものように豆を煮つめる」  傍らに簡単な案内板があったが、 今は整備されていない空地になっていた。教育委員会の話では、つい最近まで近くを小川が流れ水車が回っていたようだが、スモモの花が寂しく生誕地を見守っているだけであった。
  生家跡の後ろの小山の中腹に小さな観音堂。そこに向って平成元年に作られた「山崎方代歌碑の道」が伸びていた。生誕地跡の歌碑と同じ大きさの白御影石の歌碑が石段脇と本堂前やその脇に11基も並んでいた。それらを巡って行くと桜樹に縁取られた広場に出る。「宿スポーツ広場」と案内されたが一組の遊具だけの原っぱ。 入口を入ると左手の桜樹の下に大きな円い自然石が横たわり、黒御影石が嵌め込まれて歌が刻まれていた。
 
「ふるさとの 右左口郷は 骨壷の 底にゆられて わがかえる村」
 室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの・・・」と同様、漂泊者の心情が見事に結実した彼の代表作の一つだ。桜吹雪に代って、碑の後ろに広がる畑では桃の花が咲き誇り、小さな桃源郷にある歌碑は苔むしていた。 「今日の午前中には町の教育委員会主催の"山崎方代・歌碑を巡る会"の数十人の人々が訪ねて来ましたよ」と子供を遊ばせていた女性が教えてくれたことがとても嬉しかった。ここには友人たちが建てたこの立派な歌碑を取り囲んで、歌碑の道と同じ白御影石の歌碑が6基も並んでいた。
                                       
                             (右:民芸館と左:スポーツ広場の山崎方代歌碑)
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