いしぶみ紀行(伊東・河津・天城湯ヶ島)−2004.02−
   私の本棚に40年もの間、居座り続けている、手放せない一冊の本がある。淡い青色の箱に入った井上靖の第一詩集「北国」である。箱にも、巻末にも「東京創元社出版部」の青いゴム印が押された奇妙な本である。奥付には「初版」とあるが、店頭に並ぶ前の校正最終段階の本らしい。こんな未完成の本が市場に出回るのも珍しい。ゴム印の下には「1962年(s.37)3月東京にて購入.11月読了」と記されている。手にする度に渋谷の古書店で出会い、吸い込まれていった記憶が甦って来る。
   そして、出会ってから26年後の1988年4月30日朝8時、私は東海道線三島駅に、愛用の自転車を担いで、降り立った。自転車を組立て、朝日に輝く富士山を背負って、「天城路」に分け入った。修善寺を抜け、天城湯ヶ島温泉から一気に800mの天城峠を越え、河津のループ橋を下る、70km近くのサイクリングであった。詩集「北国」の一編の詩「猟銃」が天城の山中にあると知ったことがこの過酷なサイクリングに駆り立てたのであった。
   それからまた20年近くの時が過ぎ、伊豆に早い春を求め、小さな旅をした。 今回は、伊東市の文学碑の内見残した幾つかを訪ね、河津の浜に早咲きの桜を見て一泊。翌日、前回とは逆に河津側から天城路に分け入り、「猟銃」に再会する計画であった.。あの詩碑に出会ってからの年月は、遊歩道のハイキングを薦めた。
「伊東市」
  沿線の小さな駅には桜が咲いて、伊豆には春が近づいていた。
  伊東の中央町には、この地で肝臓病の療養をした無頼派の坂口安吾の「肝臓先生」文学碑が、今は寂れた「天城診療所」の庭に座っていた。そこから10分程の広野の交差点には、終戦前後の10年近くをこの地で疎開生活を送り「人生劇場」の筆を執った尾崎士郎文学碑が待っていて、見事に成長した椰子の木が再訪を歓迎してくれた。
         
                                   (写真左から 「みかんの花咲く丘」「尾崎士郎文学碑」「城ヶ崎海岸」)
   うっすらと汗を掻きながら高台にあるホテル「聚楽」の庭に登った。「みかんの花咲く丘」の童謡碑が暖かい日差しを背後から受けていた。作詞者の加藤省吾が東京から伊東までの車中で書き上げ、海沼実がこのホテルのピアノで作曲し、川田正子が翌日ホテル下の西小学校で初演した当市に縁の童謡である。伊東までの電車の車窓を飾った色づいた蜜柑を思い浮かべながら、街並みとその向うに広がる海を眺めていると、小学校の学芸会でこの歌を歌ったことが記憶の底から浮かんで来た。青空に向って声を上げたくなったが、往時のボーイソプラノは甦って来る筈はなかった。
トップページへ戻る                                    P.1                                     P2へ