旧邸のすぐ南側に現在の湯ヶ島小学校がある。(井上靖の通った頃はバス停の傍だったらしいが)北側の旧校門を入ると右手に「ぶんご梅」の名札を下げた梅が咲き誇っていて、井上靖の詩碑を飾っていた。    碑面には
地球の上で一番清らかな広場、/北に向かって整列すると、/遠くに富士が見える。/廻れ右すると天城が見える。/富士は父、天城は母。/父と母が見ている校庭で/ボールを投げる。/誰よりも高く、美しく、/真直に、天にまで届けと、/ボールを投げる。井上靖
と母校に贈った美しい詩句があった。
                     
                    (写真は井上靖文学碑で左「旧宅跡文学碑」.右「湯ヶ島小学校詩碑」)
   背後の副碑には建立者である当校のPTAと先生を代表して、建立時期(昭和56年)の小林豊校長が、建碑の経緯とともに、「時まさに桜花の季節、今はただ詩碑の心が、幼きものたちの行く手を春の光の如く、明るく、あたたかく照らすことを願うのみである」と記していた。
   夕日を浴びながら、今回は残念ながら見えなかったが、サイクリングの時は碑の向うに真白な富士が浮かんでいたことを鮮明に思い出した。そして、このような美しい風景と詩碑を持った小学校は幸せだとの思いが湧いてきた。
   濃紅の梅の花を眺めながら、今日のいしぶみ紀行が無事終ったことでほっとする気分が暮れ始めた春の中に溶け込んで行くのを感じていた。 修善寺行きのバスを待つ間、傍の御菓子屋さんで求めた「山葵最中」は遠い思い出のようにほんのり甘く、ほんのりと辛かった。
   20年前とは言え、よくも今日の坂道を自転車で駆け上がり、駆け下ったものだと我ながら感心し、一編の詩の力の大きさを改めて考えていた。
(旅:2004.2.16−17 記録:3.1)

(追記) 今回は再訪しなかった湯川屋前の丘の上に立つ梶井基次郎の文学碑について記しておきたい。 梶井基次郎に縁の深い人々の長年の念願が適い、昭和46年に建立された碑面には、梶井基次郎が湯川屋から、昭和2年4月30日附で川端康成宛に出した詩のような書簡の一部が刻まれている。
「山の便りお知らせいたします/櫻は八重がまだ咲き残ってゐます/つつぢが火がついたやうに咲いてきました石楠/花は浄蓮の瀧の方で満開の一株を見まし/たが大抵はまだ蕾の紅もさしてゐない位です/げんげん畑は掘りかへされて苗代田になりました/もう燕が來てその上を飛んでゐます」
   文学碑の脇には川端康成直筆の副碑「梶井基次郎文学碑」が立っている。また、梶井の作品に因んだ、「檸檬塚」(梶井の臍の緒を入れた壼を埋葬)もある。写真の通り周囲には茶、つつじ、の緑に囲まれ、「丸善の書棚に一個のレモン」を置いたり、「桜の木の下には屍体が埋まっている」と読者を驚かせた作者は美しい自然の中で安らかであろう。伊丹市の梶井基次郎文学碑が町中にわびしく立っていたのと対照的であった。また、奇しくも、訪れた日が、碑文の手紙の4月30日であったことは忘れがたい。

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