それにしても、町の下水のマンホールにまで「踊子」を彫り込んでいる川端康成や旧居が見事に保存されている井上靖に比べ、案内板もなく、手入れも行き届いていない牧水や晶子の碑を訪ねると、折角文学碑を建てた二人への冷遇ぶりは如何なものかと不満だった。この地を愛した文学者は数多い(手持ちリストには30余名)のに、この地の人は文学嫌いなのだろうか。
   ここから更に熊野山を登ると井上靖の奥津城があるのだが、疲れた足は言うことを聞かない。やむなく、湯ヶ島の町の中心に足を運んだ。
   湯ヶ島小学校の近くには井上靖の旧居跡があって、平成7年に「しろばんば」の文学碑が建てられている。事前に住所が特定できていたし、旧宅跡の南側の湯ヶ島小学校にある詩碑は訪ねていたので、今度は迷わなかった。
  入口の左手には、井上靖が「あすなろ」と呼んでいた槙の大樹は今も健在だった。正面には白い円筒形の御影石が据えられ、小説「しろばんば」の一節が自筆で刻まれていた。
その頃、と言っても大正四、五年のことで、/いまから四十数年前のことだが、/夕方になると、決って村の子供たちは/口々に"しろばんば、しろばんば〃と/叫びながら、家の前の街道を/あっちに走ったり、こっちに走ったり/しながら、夕闇のたちこめ始めた空間を、/綿屑でも舞っているようこ/浮游している、白い小さい生きものを/追いかけて遊んだ。
   この碑文に続いて、歌人・大岡信撰文の「しろばんばの碑に題す」の碑文がぎっしりとあった。調査資料に以下の全文を記録していたので、建物が昭和の森記念館に移設されて、今は庭だけになった広い敷地をゆっくりと眺めて時を過した。夕日が山の端に懸かり始めた。
  「井上靖は文壇の巨匠と仰がれながらも、一方では満天の星のもとに、ただ一人宇宙と対座することに至上の喜びを見出す、魂の永遠のさすらい人だった。彼の謙虚でしかも限りなく勤勉な精神が生んだ業績は巨大だったが、その仕事の根源には世間的な意味での栄達とはまったく無縁な心、わが好むところを好むがままに追及して飽くことを知らぬ、自由で孤独な夢想家の心が住んでいた。井上靖の中には朴訥な自然児が終生息づいていたのである。この自然児を揺藍期にはぐくんだのは、伊豆湯ヶ島の地にほかならない。『しろばんば』は、そのような心がどのようにして誕生し、成長していったかを語る自伝的小説である。(以下省略)」 さすが朝日新聞に多くの愛読者を持つ「折々の歌」の大岡信の文章だけあって、中々の名文である。
   井上靖については熊野山にあるふみ夫人が書いた墓碑銘を最後に紹介して置きたい。
    『明治四十年九月六日陸軍軍医井上隼雄の長男として旭川に生まれ、湯ヶ島に育つ。第四高等学校、京都帝国大学哲学科に学び、毎日新聞記者を経て、作家生活に入る。詩集「北国」、「星欄干」、小説「猟銃」、「しろばんば」、「風濤」、「孔子」他多数を発表。シルクロードに惹かれ、日中両国の文化交流に尽くす。文化勲章、勲一等旭日大綬章を受く。柔道六段 お酒大好き 心宏く温かき人 多忙な中にも幸せな一生を終える。平成三年十一月九日』
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