ここまで来れば、もう湯ヶ島温泉は近い。急に元気が出てきた。 狩野川と猫越川に架かる「出会い橋」(男橋と女橋があって二人で渡ると結ばれるとのこと)を渡り、川端康成が「伊豆の踊子」を執筆した「湯本館」の前に出た。(反対方向を目指せば、梶井基次郎に縁の「湯川屋旅館」に出て、旅館前の丘には彼の文学碑があるのだが、再訪はあきらめる)
湯本館を覗いて、西平神社にある牧水の歌碑を訪ねて急坂を登った。見つけ難い所なので事前に色々と調べてきたのだが、矢張り迷ってしまった。西平部落の道を行ったり来たりして、道路脇の「三十三観音札所」の看板脇の急な細い石段を思い切って登った。石段の先の左手に歌碑らしきものが見えた。これだと直感して近づく。
西日を浴びて輝いてはいるものの碑面は荒れていて判読しがたい。 手元の資料と見比べながら牧水自筆の碑面を読んで見る。 「うす紅に葉はいち早くもえいでて さかむとすなり山ざくら花」はよく知られた歌なのですぐに読めたが、あとの4首は資料を確認するに留まった。昭和56年の建立だから磨耗して居る筈はないが、彫り方が浅かったのだろうと残念だった。碑の脇には山桜の老木が一株植えられおり、この熊野山の山麓からは湯ヶ島の温泉場を取り囲む山々が遠望できる。桜の季節にはきっと碑に刻まれた歌の光景が浮かんでいるに相違ない。刻まれた歌で春の絵巻を想像する他ない。
「吊橋のゆるるあやふき渡りつつ おぼつかなくも見し山ざくら」
「とほ山の峰越の雲のかがやくや 峰のこなたの山ざくら花」
「瀬瀬走るやまめうぐひのうろくづの 美しき頃の山ざくら花」
「山ざくら散りのこりゐてうす色に くれなゐふふむ葉のいろぞよき」
傍らにあった牧水の弟子の大悟法利雄撰文の副碑には「大正九年夏、東京から沼津に移った歌人若山牧水は、ふるさと日向を思わせる湯ケ島温泉の風物を深く愛し昭和三年に没するまでしばしば来遊して長期滞在、円熟したその後期の清澄な自然詠の代表たる数々の名作を遺した。(以下略)」とあった。因みに牧水の当地での常宿は先ほど訪ねた「湯本旅館」であった。
(写真左「若山牧水歌碑」.右「梶井基次郎文学碑s.63撮影」)
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