当時、見知らぬ東京での生活を始めたばかりの社会人二年生は、これから展開する人生を前にして立ちすくんでいた。そして、この詩に描かれた世界「生きものの命断つ白い鋼鉄の器具で、あのように冷たく武装しなければならなかったものは何であったらうか。私はいまでも都会の雑踏の中にある時、ふと、あの猟人のように歩きたいと思うことがある。ゆっくりと、静かに、冷たく――。」の詩句が強烈な光を放って来た。大都会の独身寮の一室で、密かに我が身を守るものは何か・・・と自問し続け、以来、多作なこの作家との付合いを続けている。
  老いを迎えつつある今もこの詩集は新鮮で、懐が深い。「流星」の詩には「鉄屑と瓦礫の荒涼たる都会の風景の上に、長く尾をひいて疾走する一箇の流星を見た。(中略)その星の行方は知るべくもない。ただ、いつまでも私の瞼から消えないものは、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する星というものの終焉の驚くべき清潔さだけであった」と描かれて、脱落の時期に差掛ったうつむき加減の背中を正してくれるのだ。(この詩の詩碑は金沢市の、作者の母校・旧制第四高等学校の跡地にある、金沢近代文学館の庭に建っている)
   暫らく山の音に耳を澄まし、渓流の周りを彷徨って、荒れた遊歩道を「昭和の森記念館(井上靖旧居移設展示)」を廻り、横光利一の文学碑を再訪しようとした。が、道が崩壊していたのであきらめ、風で杉の木のギイギイ泣く声を聞きながら、誰一人歩いていない踊子遊歩道を島崎藤村文学碑を目指した。 「いのしし村」という見世物小屋の裏側の細道の脇、その一画だけ林の途切れた小さな広場に枯れた山を従えて文学碑があった。ここでも春の風が鳴っていた。
               
                         (写真左「横光利一文学碑s.63」.右「島崎藤村文学碑」)
   昭和59年3月、根岸秀雄の設計で建立された島崎藤村の「伊豆の旅」文学碑には、明治42年2月に田山花袋、蒲原有明、武林無想庵の同行4人で伊豆の旅をし、翌年4月の「太陽」に『旅』として発表された文章の一節が刻まれている。 また、今回は訪れなかった横光利一文学碑は踊子遊歩道の杉木立の中に立つ、5本のパイプ状の柱の立つ奇妙な文学碑(昭和57.3建立)で、碑面には小説「寝園」(昭和5年)の一節が活字体で刻まれている。 両碑ともに立派な文学碑であるが、天城湯ヶ島町が遊歩道整備に合わせて建立した模様で、訪れるには相当歩かねばならなかった。 天城路のハイライト「浄蓮の滝」に着いた。もう一万歩もガレ路を歩いたので、急坂を滝まで降り、滝壷で石川さゆりのヒット曲「天城越え」の歌謡曲碑を見ながらエネルギーを補充したが、また登って来た時には息が切れていた。

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