終戦後、当地で過した20年余はあまり裕福ではなかったらしい。あの街道に張り付いたような旧居跡がそれを示している。だが、ひたすら詩を作り、詩を求めての幸せな日々だったと言われている。詩集「岩魚」の存在が、齢を重ねても蔵原の詩魂が健在で枯渇することがなかったことを示している。むしろ、晩年に至って頂点を示したとさえいえる。 お別れの時のあの微笑みが教えてくれた「手品の種」のひとつは、この詩の最終節ではなかろうか。詩人と先輩が二人して教えてくれたこの言葉をしっかり受け取っておこう。蔵原伸二郎の詩をもう一つ読むために身を起こして歩き出した。

   市民会館の前に若山牧水の歌碑が座っていた。
     「しらじらと 流れてとほき 杉山の 峡の浅瀬に河鹿なくなり」牧水
   よく整備されたどうだん躑躅の生垣に沿って建ち、碑面は喜志子夫人の筆跡で刻まれていた。ここからは市のシンボル・天覧山とその山麓の能仁寺の山門がすぐ前に広がる。
           
                 
           (写真:左より「牧水歌碑」「能仁寺本堂」「蔵原伸二郎詩碑」)
   能仁寺の創建は戦国時代。飯能地方の領主、中山、黒田両家の菩提寺となり、栄華をきわめたとのこと。その面影は立派な山門とその先に立ち並ぶ巨大な石灯篭の数々に偲ばれる。この名刹は、慶応4年5月の飯能戦争(幕府軍・「彰義隊」の分派「振武軍」が官軍を相手に戦った戦争)の本陣となり、全てが灰になった。天然の要害を背景したこの寺は、低くはあるが堅固な石垣で守られ、本堂の代わりに櫓を建てれば立派な城である。が、強固に武装した本陣も「時代の勢い」には簡単に破られ、戦闘は僅か2日で終了したという。 今、全てを失った能仁寺は清々していた。再建された本堂が広い芝生に小さく座っていた。敷地の東南の一角は、小公園で、天覧山への登山道入口となっている。その脇には蔵原伸二郎の詩碑が桜樹を従えて建っていた。高さ3mほどの稲井石の堂々たる風格である。碑面では格調高く彫られた自筆の「めぎつね」の一節が冬の柔らかい日差しを浴びていた。桜の季節には見事な花で飾られるだろうが、碑の詩を鑑賞するにはこの冬枯れた風景が似合っていた。後ろに廻ると「飯能市観光協会・昭和41年9月」とあった。観光資源に恵まれず、ゴルフ場の存在以外余り知られていない市の観光協会が設立した経緯は作者と当地の繋がりの深さを偲ばせる。

           
めぎつね
     野狐(やこ)の背中に
     雪がふると
     狐は青いかげになるのだ
     吹雪の夜を
     山から一直線に
     走ってくる その影

      凍る村々の垣根をめぐり
      みかん色した人々の夢のまわりを廻って        
      青いかげは いつの間にか
      鶏小屋の前に坐っている

      二月の夜あけ前
      とき色にひかる雪あかりの中を
      山に帰ってゆく雌狐
      狐は みごもっている      
(「岩魚」所収・太字部分が刻まれている)

 

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