蔵原氏は熊本の阿蘇神社の直系「阿蘇氏」の一族。版画家棟方志功とも親交あり。処女詩集「東洋の満月」はその装丁や挿絵を棟方が引き受けた。戦中に民族主義的な戦争詩をものしたため戦後不遇の時代が続く。昭和21年から永眠した昭和40年までの間、飯能市に居住。地域の文化振興にも貢献。昭和40年1月、現代詩史に不動の位置を確立した詩集「岩魚」で読売文学賞を受賞。2月6日の授賞式の早朝危篤に陥り、3月16日白血病のために永眠。

   トタン屋根の平屋が街道に張り付いていた。詩人が亡くなってもう40年近いから、家の古さから立て替えられたものと推定する。向かいの家々の間からは低い山並みと、眼下に白い河原が見える。振り向けば天覧山が聳えている。現在のような車の往来のなかった往時には、夜はきっと川音が聞こえ、詩人の心を揺さぶり、詩「石の思想」を書かせたに違いない。 詩人・大岡信は蔵原の詩についてこう述べている。少し長いが引かせて頂く。

  「乾いた道」を経て「定本岩魚」の世界にまで上昇していったことを、みごとだと思う。その間の十年ないし十数年間にかれが沈潜した思索の跡は、詩論集「東洋の詩魂」によって伺うことができる。(中略) 蔵原はこの本の序論の部分で次のようにいっている。 「もはや、地球はあまりに小さく縮まり人々にみちあふれて、地球の反対側で、倒れた一人の人間の悲しみの波動さえ、直ちに感覚し得るほど目白押しに充満して、新しい土地への希望は失われている。すなわち抒情の平面への悦びは行詰ってしまったのである。思考の高さと深さへの無限の道だけが残されているようだ。それゆえに、立体の不思議な鬼である虚無が、われわれを導きはじめたのだ。絶対への限りない誘惑と彷徨がのこされているばかりであろう。全く質価を異にした新しい抒情が出生しなければならぬ時である」蔵原がここで求めた抒情詩の、ひとつの典型的な実現が、やがてかれの書くはずの「定本岩魚」の、とりわけ「狐」詩篇だった、といってよいとぼくには思われる。

   蔵原の思考は50年も前のものだとは思えないほど新鮮だ。処女詩集「東洋の満月」は、保田与重郎が「ほとんど一民族がもつことの出来る何冊かにすぎない稀有の詩集の一つ」と情熱をこめて讃えたが、私には戦後の「めぎつね」や「石の思想」などを収めた詩集「岩魚」の各詩篇に流れる深い抒情が心に残る。 詩人の旧居から段丘を少し登って、郷土資料館を訪ねる。この付近は公園として整備されていたのでベンチに座って、先程見た名栗川の風景を思い出しながら、書き留めてきた「石の思想」の詩を読んだ。

 
広い河原にいって
  石の間にもぐり込むのがすきだ

  石たち自らの追憶 その二十億年は
  昨日のようだ
  二十億年前の 青い蝶が
  ほら 石原をよこぎってゆくのが見える

  石たちの上を 時間がゆっくりゆっくり
  あるいている
  ほら 一匹のバッタが
   しだいに 巨視像となって
  永劫の空に映し出される

  光り かげり また光る   雲たち
  回転しながらいつか無の中に消える地球
  ぼくも 石たちも バッタも
  やがて 消滅するために
  今は
  ちからいっぱい光っている

 
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