1月10日にはお別れに参ります。その時は短い時間しかお話できないと思いますので、その後、飯能市に詩人の足跡を訪ねながら貴方を偲び、その「いしぶみ紀行」と共にこのお手紙を差し上げたいと考えながらこれを書き留めました。
   長い間、本当に有難う御座いました。心から御礼申し上げます。
   安らかにお眠り下さい。  (2004.01.08 早朝)
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    西武線の飯能市駅に降り立った時にも、まだチャイコフスキーのピアノコンチェルトが鳴り響いていた。その曲は、長い間、「地球の歩き方」を教えて下さった大先輩のお別れの会場に流れていたものだった。故人の愛したこの曲の冒頭の大音響は、何時もこれからはじまるドラマを予感させ、静かな緊張が走る。旅立ちの緊張に似ている。
   飯能の町には、江戸時代からの古い家並と平成の建物とがごちゃまぜに放り出されていた。町の中心を貫く「飯能・名栗街道」は明治・大正時代の道幅で歩きづらい。詩人・蔵原伸二郎を調べるために図書館に急いだ。郷土関係の書棚には、お待ちしていましたとばかりに、この町に住んだ詩人の本が首を長くしていた。そうだろう、そうだろう、今では蔵原伸二郎の名前は忘れ去られている。

   蔵原伸二郎 1899(明治32)〜 1965(昭和40) 昭和期の詩人。 熊本出身。本名は惟賢。慶大仏文卒業。「コ ギト」「四季」同人として詩を発表。フランス象徴詩の影響もあるが東洋的詩精神が主調の詩人。 1939処 女詩集「東洋の満月」、'47「山上の舞踊」、'54「乾いた道」、 '64「岩魚」のほか、'56評論集「東洋の詩魂」などがある。(「人名辞典」)

   ここまで来たからには旧居を訪ねてみたいと思った。年譜には「飯能市川原町281番地」とあったが現代の地図には無い。地名変更で名前が消えたらしい。散々に司書の手を煩わせてそこが「飯能市飯能281番地」あることを突き止めた。地図で調べると図書館から近い。早速出かけることにした。

  図書館の横に観音寺があった。先ずそこに、水原秋桜子と松尾芭蕉の句碑を訪ねる。
    「むさし野の空真青なる落葉かな」秋桜子
 石畳の参道が100mほど続く広い寺だが、参道右手の白槙の根元に置かれた丸みを帯びた自然石に自筆で刻まれてあった。昭和49年むさしの馬酔木会の建立である。碑石を取り囲む落葉や、折からの冬の日差しが句の情景を偲ばせる。本堂前では早くも紅梅が咲き出していた。
                 
           
       (写真左より:「観音寺本堂」「水原秋桜子句碑」)
   芭蕉の句碑を探す。少し離れた工事中の駐車場の奥に築山が取り残され、数基の石碑が見える。句碑らしきものを丹念に見るが碑面が磨耗して十分に判読できない。調査資料と照らし合わせてなんとか「秋の暮」の文字を見つけて写真に収める。

   「枯枝に鴉のとまりけり秋の暮」芭蕉

   この地区は名栗川(入間川)の段丘地帯にあり、「飯能・名栗街道」がその中腹に沿って伸びる。左手、遥か下の方で川面が光っている。狭い道路を、往来の激しい車を気にしながら、しばらく辿ると郷土資料館が見えてきた。その三叉路を越え、右手5軒目が詩人の旧居だと地図で確かめてきた。図書館で数冊の本を拾い読みして得た詩人に関する新しい知見を思い出しながら旧居跡に立った。

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