いしぶみ紀行上高地・戸隠−2003.10−  

「素朴な琴」
  この明るさのなかへ ひとつの素朴な琴をおけば
 秋の美しさに耐えかねて 琴はしずかに鳴りいだすだろう
                                (八木重吉「素朴な琴」)
  青春の上高地と熟年の戸隠。この二つの高原に私の「素朴な琴」をおいて、その奏でる調を聴いて見ようと秋を求めて旅に出た。
                 戸隠奥社紅葉
「上高地の秋」
  機関車の「ピー」という懐かしい音に目覚める。日本のグリンデルヴァルト松本に朝が来た。ホテルの窓は結露し、手に取った今朝の地元紙はもう穂高の山小屋の閉鎖を伝えていた。明るさが増してきた窓を開けると、北アルプスが横たわる。神々しいまでに山巓が朝日に輝く。今日訪れる上高地の方向を見やると雲ひとつない。
  「よし」とひと言気合を入れ、ホテル入口の壁面にある尾崎喜八の詩碑(詩「松本の春の朝」一節刻)に挨拶して、松本駅に向かう。
  電車は安曇野を快適に走り、終点の新島々駅でバスに乗り換えて渓谷を遡行する。島々で「徳本峠入口」の看板を横目で見て、その昔、岐阜県から長野県の製糸工場に働きに出た女工たちのことを思い出しながら野麦街道を走る。
  深く切れ込んだ渓谷の断崖の中腹を走るこの路線の景観はすばらしい。両側の山々の紅葉が朝の柔らかい日差しに映え、見事に金襴緞子の絨緞を浮かび上がらせる。アルプスへの序曲・「日本の秋」が始まり、気分は一気に高揚する。序曲は「奈川渡ダム」の長いトンネルを抜け、より険しくなった「梓湖」の湖岸を走り、アルプスの奥へと分け入る間ずっと鳴り響いていた。
 最後の難所は「釜トンネル」だ。上高地の神の聖域に入るための暗闇の世界。今でも険しい山に阻まれて交互通行しか出来ない。昭和になってこのトンネルが開通する前は、島々から雪崩の危険に曝されながら徳本峠を越えたという。友人がこの峠越えで雪崩を目前にした時の興奮を熱く物語ってくれたのを思い出しながら、10分ほど対向車が通過するのを待つ。
  トンネルを抜けるとそこはアルプスの別世界である。「日本の秋」は突然「西欧の秋」に顔を変える。昔、重装備で8時間の行程に汗を流した者だけが目にすることが出来た神の聖地が眼前に横たわる。
トップページへ戻る        −1−        次(P2)へ