戸隠の自然を娘に語らせながら、「時の移ろい」感じさせるこの詩は、ひっそりと聞く昔話みたいな穏やかさがある。この地を愛し、東京海上に勤務する傍ら、毎週末に来て、美しい季節も、厳しい季節も知り尽くした作者ならではの作品である。鎌倉・浄智寺の裏に偶然にも旧居を見つけた時以来、この詩人とは見えない糸で結ばれているような気がする。作者の略歴を記して置こう。
1909(明治42)〜 1944(昭和19)
大正・昭和期の詩人
慶応大学在学中から肋膜炎を患い、療養中に文学に親しむ。室生犀星・堀辰雄に師事、昭和7年「小扇」を発表し、新進詩人として評価を得る。療養の地・戸隠の自然を愛し、戸隠の抒情を歌った。平明で優しい言葉を用いる「四季派」抒情詩人。代表作は詩集「愛する神の歌」随筆「戸隠の絵本」など。兄は映画評論家・津村秀夫。難病のため35歳で夭折したのが残念で、昭和詩史にもっと大きな足跡を残こせた詩人、未だに詩集が売れている詩人である。
中村雨紅の碑を訪ねなければ帰れない。
二軒しかないタクシー会社に電話するがいずれも通じない。その中の一軒は中社の横、当ても無く営業所の前で待つことにした。少し肌寒くなってきた。予定していたバスが目前で客を拾って行く。この後は一時間後だ。30分以内に車が帰ってこないと碑を訪ねて次のバスには乗ることが出来ない。時計と睨めっこしながら気分は秋の日差しのように急速に落ち込んで行く。覚悟を決めてはいるものの紅葉さえ淋しく見える。
当てもなく20分近く待っただろうか、漸く救世主の車が戻ってきて急いで乗り込む。「奥社入口の資料館までお願いします」と告げて走り出した時には、俄に饒舌になって運転手に経緯を話す。あっという間で資料館に着く。
丘上の庭に駆け上がり、白樺に囲まれた「戸隠人形」詩碑に漸く出会う。長い時間を碑の側で過ごしたようだったが時計を見るとたった10分ほどだった。
わたしゃ戸隠 奥山生れ/霧に抱かれて 育った白樺
伐って刻まれ また削られて/紅をさされて おしろいつけて
今じゃこんなに 可愛い姿/戸隠人形に なりました
碑面には「戸隠人形」の民謡詩が二番まで刻まれ、碑陰には「戸隠人形に寄せて」と作者の文の一節が刻まれていた。それによると経緯は次の通りである。
作者は長野市に沢山の知人を持ち度々来遊した。時には戸隠にも足を伸ばし、「太古そのままの人柄を持ち」「人情こまやかな所はきわめてまれである」人々の暖かさに触れた。土産に買い求めた「戸隠人形」を机上に置いてこの地を偲び、「私の心には、戸隠はこの世のユートピアとして深くしみこんだ」「幾度でも行って見たい。できることならば、住んでみたい」とさへ願い、そういう心境をこの「戸隠人形に言わせたわせた。
前(P7)へ −8− 次(P9完)へ