(クリック拡大(明神池・二個の宝石)
  嘉門次小屋がしっかりと見張り番する明神池には、神が少しだけ流した涙が天空に聳える明神岳から落ちて、積もり積もって溜まっていた。アルプスの奥座敷に散らばった二個の宝石だ。静かな湖面は針葉樹を背景に二本の黄色い落葉松で飾られ、降り立った神は厳粛な顔をして佇み、荘厳な雰囲気であった。池畔には昨年訪ねた安曇野の穂高神社の奥社が鎮座していた。池は神域だから、見せてもらうにはお賽銭が必要だったが、天辺から転げ落ちた岩を格好の椅子にして、秋を深呼吸した。新装なった明神橋を渡り、帰途は梓川左岸の平坦な道を選んだ。林越しに時々顔を覗かせる穂高連峰は少し雲のベールを被り出し、気温が下がり始め、早めの下山を促し始めた。この聖地での夕映えを見たい誘惑にかられたが、バス停に並ぶ長蛇の列に恐れをなして混雑する上高地を後にした。 
 この高原の秋は、清冽で硬いガラスの黄色単色の世界。神は美しい庭を見せてはくれるが、人間が一緒に住むことを厳しく拒んでいる。若者だけが、若さにハーケンとザイルに巻きつけて、その高みに挑戦する。真新しいキャンバスに、自分だけの傑作を描こうとして。
  例えばこんな話。北穂高山頂の山小屋の二代目は音楽好き、山小屋でクラシックレコードをかけて訪問者をもてなすという。夏のある日、若きバイオリン奏者が山を登る。山頂の音楽はバッハのバイオリン協奏曲。感動を呼ぶ傑作だ。そこからは槍ヶ岳と富士が遠望できる天上の楽園。しかし一年は180日の夏と180日の冬の世界。たった3日だけの紅葉だという。上高地には「西欧の秋」があった。夏と冬に挟まれた短い秋があった。私の「素朴な琴」は光太郎の「秋の祈」を聞かせてくれた。私も詩人に倣って私の「暗愚小伝」を書かねばならない。
       「秋の祈」(一部)
  秋は喨喨(りょうりょう)と空に鳴り
   空は水色、鳥が飛び魂いななき
   清浄の水こころに流れこころ眼をあけ
   童子となる

   
   多端紛雑の過去は眼の前に横はり
   血脈をわれにおくる
   秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
   地中の営みをみづから祝福し
   わが一生の道程を胸せまって思ひながめ
   奮然としていのる

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