(田代池の秋)(クリック拡大)   (河童橋からの穂高連峰)
  かつて、上高地には一つだけ文学碑があった。この地を愛した詩人・尾崎喜八の詩碑だったが、梓川の氾濫で流され失われた。人間を拒むこの地は神が創った作品以外は置いてもらえない様だ。
  上高地と言えば尾崎喜八の他にもう一人忘れることが出来ない詩人がいる。「智恵子抄」の高村光太郎である。
  年譜によれば、明治42年、光太郎は4年間の欧州滞在後、彼我の文化の落差に打ちのめされ、帰国し、父に代表される旧体制に戦いを挑み、敗れ、疲れはて、デカダンスに沈潜する。そんなデスペレートな光太郎の前に、妻となった長沼智恵子が現れる。大正2年8、9月の二ヶ月間、秋の展覧会のために上高地の清水屋に滞在し油絵制作に没頭する。当時、上高地への道は徳本峠越えしかなく、宿屋も清水屋の一軒。大正4年の焼岳の大爆発で梓川が堰き止められて出来たのが「大正池」だから、まだ池は無く放牧された牛が草を食んでいたという。9月、智恵子が訪ねてくる。「彼女は案内者に荷物を任せて身軽に登って来た。山の人もその健脚に驚いてゐた。・・・それから毎日私が二人分の画の道具を肩にかけて写生に歩きまはった」(「智恵子の半生」)光太郎31歳、智恵子28歳の青春であった。光太郎は大自然の懐で見事に復活をとげ、智恵子と結婚するに至る。「智恵子抄」にある「狂奔する牛」には、二人の青春が見事に描かれている。一部を書きとめておこう。

今日はもう止しましょう/書きかけてゐたあの穂高の三角の尾根に/もうテル・ヴェルトの雲が出ました。/槍の水を溶かして来る/あのセルリアンの梓川に/もう山山がかぶさりました。/谷の白楊が遠く風になびいてゐます。/今日はもう書くのは止して/この人跡絶えた神苑をけがさぬほどに/又好きな焚火をしましせう。/天然がきれいに掃き清めたこの苔の上にあなたもしづかにおすわりなさい。       

  ここは人間世界から隔絶され、若い二人が純粋に愛を練り上げ、新しい挑戦を決意させるに相応しい場所であった。 
  混雑する河童橋から初めての明神池へ梓川右岸の木道を辿る。一時間ほどの道はシラカバ・ダケカンバなどが明神岳の岩壁の裾を巻いている。穂高連峰を伺う若者たちの通う道だが、今日はハイカーばかり。


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