信濃追分は私の愛する文学者たちの縁の地。今年は、この地を愛しこの地で生涯を終えた、堀辰雄の没後五十年の記念の年で、記念文学館は特別展示を開催中。これは見過ごせない。勝手知った旧中仙道の追分宿の細道を、夏祭りの太鼓の音を懐かしく聞きながら辿る。浅間は雲の中、コスモスやひまわりが詩人の言葉を話しかけくる。
           夢はいつもかへつて行つた   山の麓のさびしい村に
         水引草に風が立ち   草ひばりのうたひやまない
         しづまりかへつた午さがりの林道を
         うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた・・

                                        (立原道造「のちのおもひに」)
   記念館は旧居の跡地。初めてここを訪れた時にはまだ自分の背丈ほどだった落葉松も今では立派な木陰を作っている。林間を優しい風が通り抜けて行って、山百合と桔梗を運んで来ていた。旧主人の優しい心遣いが今も生きている。いしぶみ紀行を書き始めて、執筆の苦労が少し解り始めたので、特別展示の「創作ノート」等を、名作の誕生秘話を聞く思いで、じっくりと勉強させてもらった。
                   
            (信濃追分・記念館内の堀辰雄旧居)                  (記念館庭・堀辰雄文学碑)
   そう、ここまでは順調に行ったのだが・・・。
   記念館から塩沢湖畔行きの臨時のバスは予定より遅れた。そのため、深沢紅子美術館のレストラン「ソネット(十四行詩)」での昼食予定が狂ってしまい、高原文庫の前の旧有島武郎山荘の喫茶室で、慌しくスコーンを頬張った。


   私は息を弾ませていた。もうすぐ幕が開かれるのに・・・。
   気持ちを落ち着かせるために、中村真一郎を思い出していた。毎年、夏の「高原文庫友の会」で、颯爽と現れる長身痩躯の館長で、何時も美しい女性が周りを取り囲んでいた。戦後の日本文学史上に大きな足跡を残した人物だから紹介は蛇足であろうが、簡単に略歴を記しておこう。
   大正7年(1918)東京日本橋生。昭和16年東大仏文卒業。昭和17年、福永武彦、加藤周一らと「マチネ・ポエチック」を結成し、日本語による定型押韻詩を試みる。堀辰雄に師事。雑誌「四季」に小説「死の影の下に」を発表し戦後派作家として注目された。二十世紀西欧文学の手法を取り入れた数多くの小説を発表。小説「四季」4部作が代表作。晩年の活躍も目を見張らせる。「頼山陽とその時代」で芸術選奨、「蠣崎波響の生涯」で読売文学賞を受賞。活躍の分野は文学に限らず、文学座の演出家、映画「モスラ」の原作者、日本近代文学館館長など広かった。平成9年(1997)永眠。
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