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いしぶみ紀行(伊豆下田) −2003.06−

 花の旅がしてみたかった。
 梅雨入り前のこの季節、「雨でも良し」の花と言えば「紫陽花」。そうだ伊豆・下田の「紫陽花祭」にしよう。かねてから下田にある神奈川に縁の佐藤惣之助の詩碑を見たかったし、今年は開国150周年の記念すべき年・・・と特急「踊り子」号の客となった。今回は友人と家内との三人の旅で、生憎の(?)快晴の日であったが・・・。

 東海道線で一番の絶景、根府川の海は穏やかな朝の光に輝く。伊豆山の長いトンネルを潜り熱海駅を過ぎると、ここからは東伊豆の断崖を縫って「若い踊り子」は軽快に走る。車窓には山の緑と海の青が交互に顔を出す。伊豆高原・熱川・河津と駅毎にそれぞれの旅の思い出を話していると、吉田松陰が5日もかかった下田は2時間強で到着。ホームには早速紫陽花の花がお出迎え。

 下田公園に向かって歩き始めるが、初夏の陽射しは結構きつい。下田と言えば「唐人お吉」だがその墓のある「宝福寺」は素通りして、10分程で山頭火の句碑のある「泰平寺」に着く。小さな寺ながら如何にも旅の俳人・山頭火の好みそうな寺である。本堂右前の芝生の上に山頭火句碑が座っている。昭和11年当地の俳友を訪ね来遊した時の発句で、当寺の住職が建立した句碑であることが碑陰に刻まれてあった。

 「伊豆はあたたかく野宿によろしい波音も」(昭和57建立)   
 

山頭火友人、俳人の大山澄太の書体は各地の山頭火句碑で見ているので懐かしい。俳人・種田山頭火が伊豆を漂泊した当時の日記には、「伊豆は生きるにも死ぬるにもよいところである」とあり、行乞と風狂にゆれる彼の内面が伺える。花を見れば美しいと思い、酒に酔えば極楽の放浪をつづけた彼の伊豆の旅を代表する一句が碑の句ではなかろうか。 気ままな旅のスタートに格好の相手と出会った気持ちで碑を後にした。山頭火が推奨の「波音」を聴くために・・・。

    
    (泰平寺・山 頭火句碑)
            (了仙寺の山門とジャスミンの花)


 泰平寺の隣にある「吉田松陰 勾留の地 記念碑」を見て、了仙寺にジャスミンの花を訪ねる。案内書によると、「嘉永7年(安政元年-1854)3月、神奈川において日米和親条約が締結されて下田が開港場となり、ペリーとの間の和親条約付録下田条約がここで調印された」とある。観光名所なので人も多い。未だに幕末の雰囲気を残す本堂の参拝をそこそこに、ジャスミンの香りに惹かれて境内を巡る。一千株あると言うが既に盛りはすぎている(5月中旬見頃)。残り香だけでもとカメラを構えた。
 了仙寺から南に下田公園まで、小川沿いに、「ペリーロード」と称する石畳の散歩道が整備されていた。大男のペリーさんの散歩道にしては狭い。狭いお陰で川端には飾られた花が溢れ、柳が浜風に戦ぐので暑気払いにもってこいだった。

10分程で下田公園の入口。
「下田公園は北条氏の鵜島城があったところで、園内には15万株の紫陽花が咲き誇ります」と案内書にあったが、頂上の高台までの小径は紫陽花が山盛りである。途中に「紫陽花苑」があって、谷一面の紫陽花が見事に広がる。
 この花は何と言っても群生して咲いた時が一番だ。しかし、まだ五分咲き位なので、谷が紫陽花で埋め尽くされている風景に思いを巡らす。すると、不思議なことに先日13回忌を済ませた母の姿が顔を出す。母の思い出の作品「紀州手鞠」に似た円い紫陽花は母の化身なのだろうか。
 頂上の砲台跡まで辿るが、期待した見晴らしには巡り会えず。ひと汗かいた頬に涼風のご馳走を頂き、中腹の開国広場へまた紫陽花のトンネルを下る。花の脇で今日は野点のサービス。乾いた喉がゴクンと鳴ったが待つ人多くパス。

        
(下田公園・柏葉紫陽花)        
              (下田公園・紫陽花「隅田の花火」)

途中で地元案内の人から珍しい紫陽花の紹介を受けた。結構な品種があるらしく、案内人の手にしていたノートは紫陽花の写真で溢れていた。「幻の紫陽花(七段花紫陽花)」「柏葉紫陽花」「隅田の花火」・・・なるものも教えて戴いた。これだけ知っていれば「紫陽花博士」になれる「紫陽花のあれこれ」を記しておこう。

*原産地は日本の海岸に自生した「ガクアジサイ」。万葉集にも登場する古い花。この公園の紫陽花は「赤色・紫色の系統」より「淡い水色系統」が多かった様だが、これはこの地の土壌がアルカリ性(酸性だと赤系統の花が咲く)によるものとのこと。

*アジサイの仲間は世界で四十数種類。品種の数は千種に及ぶと言われており、現在も交配や新しい発見により多くの名花が発表されている。日本の各地には十数種類のアジサイが自生しており、主な仲間としては、ヤマアジサイ、エゾアジサイ、ガクアジサイ、タマアジサイ、コアジサイ、ツルアジサイ、などがある(日本だけでも150品種)。中国には早い時期に輸出され彼の地でも珍重された(中国名:洋毬花・八仙花)。一方、西欧には江戸時代に長崎のオランダ商館の医師として滞在し、日本人の妻「お滝さん」を迎えたあのシーボルトが持ち帰り紹介。今はその名は消えたが、一時は「お滝さん」に因んでその紫陽花は「オタクサ」と呼ばれた。現在日本各地で見る大振りの紫花はこの紫陽花が西欧で進化し大正時代に日本に逆輸入されたもの。

*広辞苑に「球状の集散花序に顎片だけが発達した不実の花(装飾花)を多数つける」とあるように、我々が美しい花びらと見ているのはこの「装飾花(がく)」で、本当の花は小さくその陰に隠れている。薬効としては花(がく)・葉に解熱作用(マラリアの特効薬)があり、今でも漢方薬に使われている。

*名前の語源は幾つかあるが、「あづさい」「あぢさゐ」が変化したものと言うのが有力。「あづ」は「あつ」(集)、「さい」は「さあい」(真藍)で、青い花が集まって咲くさまを表した。漢字で書く「紫陽花」について調べていたら面白い話に出会った。「アジサイ」に「紫陽花」の漢字を使用したのは平安時代の学者源順(みなもとのしたごう)である。彼は中国・中唐時代の詩人白居易(白楽天:772846)の「白氏文集」(巻20)の中にでてくる「紫陽花」を勘違いしてアジサイにあてたのが始まりだそうだ。その「紫陽花」とは中国の杭州の招賢寺に咲いていた名前が不明の紫色の花木で、それに白居易が「紫陽花」の名前を与えた。この花の正体は未だに不明であるがアジサイではなかった。我々は知らず知らずの内に「アジサイ」を誤って「紫陽花」と書いて使っていたなんて・・・。


(紫陽花と下田富士)(下田公園・佐藤惣之助詩碑)    (幻の紫陽花遠景)

  開国広場は祭りの期間中なので露店で埋まり、下田太鼓の実演が開国記念碑の前で行われていた。広場の海に面した端に目指す佐藤惣之助の詩碑が下田富士を背景に建っていた。絶景の場所を選んだものだ。碑面には惣之助の自筆で詩「春の港の街にて」の一節が刻まれている。(昭和45年建立)

「わたしは熱い春の天城の/天辺から/火のついた鵜のやうに/飛んで来た/港は恋しい/春の夕の港は/一目見たばかりで異様に/美しく埋もれてゐる」

「熱い春」「天城の天辺」「美しく埋もれて」・・・と見事な詩句に詩人の光る眼を感じながら紫陽花越しに眼下の港の風景を堪能する。碑の後ではご婦人達が昼食の最中だったので、遠慮しながら、急いで碑陰の白鳥省吾撰文の説明文を書き写す。
「佐藤惣之助は明治42年19歳の頃より度々下田に遊ぶ 大正15年4月詩話会同人室生犀生 萩原朔太郎 川路柳虹 白鳥省吾等を案内して下田に来た 下田の鈴木白羊子 森斧水等と親交があった 下田の詩として 他に「1854年に」「白浜にて」「下田港」などがある・・・」

 詩人佐藤惣之助は明治23年神奈川県川崎市に旧川崎宿の本陣の跡取りとして生まれ、大正時代に活躍した。詩人萩原朔太郎の妹と再婚し、「詩の家」を主宰し後進の指導に貢献した。「神奈川県の文学碑」の登場人物としては欠かせない人である。彼は詩人としてより作詞者としてより名が知られているようだ。「赤城の子守唄」「人生劇場」「国境を越えて」「青い背広で」「人生の並木路」などの名曲を古賀政男とのコンビで世に送り出している。あまり知られていないが、目下快進撃中の阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」も彼の作詞である

先の予定もあり、幻の紫陽花を見て下山にかかる。といっても、その花は道から離れておりよく見えない。多分あれだろうと写真をとって「幻」でないことを祈ったが、残念ながら写真の中央の小さな花で、まさに「幻の花」で終わった。

公園下はペリーの上陸地点「鼻黒の浜」で記念碑が建っていた。ここから対岸の駐車場まで臨時の渡船があったので、「船上から黒船見物を」と野次馬気分で乗船。ほんの100m程の水路を渡る日本一高価な渡船で、黒船を探している閑もなく着いてしまった。ここから直ぐの「間戸ヶ浜」に鮮魚市場や、西條八十の「お吉小唄」の歌碑もあるので、ご馳走の臭いに惹かれて歩き出す。
 かつては岩場のある浜であった筈がすっかり整備されて芝生の公園、物産館に模様替えしており、八十の歌碑は行方不明。近くの「さかなや」なる軽食堂で「地元産・金目鯛」を戴く。これが大当たりで結構美味かった。

         
      (吉田松陰記念碑)                           (窪田空穂歌碑)    

満腹したところで午後の訪碑を始める。
 下田市柿崎の弁天島と言えば、幕末吉田松陰が密航を企てた出発の地。今は陸続きで、松陰が野宿した祠(傍らに記念碑)と海側の断崖が往時の面影を残すのみ。島の入口近く、木々に囲まれ草生した中にぽつんと窪田空穂の歌碑があった。歌碑は賀茂短歌会が昭和47年建立したもので、碑の歌は

「心燃ゆるものありて踏む夕波の 寄り来て白き柿崎の浜」

 作者の窪田空穂は大正9年秋、沼津より船で下田に入港、柿崎弁天島に遊び、吉田松陰を偲んで五首の歌を詠み、歌集「青水沫」に収めた。碑の歌はその内の一首である。少し不便な所ゆえ誰もいないが、この海岸からの落日はきっと若き松陰を火の球のように染めあげたに違いない。「燃ゆる心」の若き松陰を偲ぶには相応しい所であった。

 浜の潮風は心地よい。遠い海の彼方を眺めていると、気分は司馬遼太郎の「世に棲む日々」世界に飛んで行く。著名な吉田松陰ではあるが、筆者は知る処が少ない。司馬遼太郎の小説の松陰だけを頼りに話しを進めよう。
 
 まず略歴を拾って見る。

「長州萩城下松本村で下級武士杉家の子として生まれ、吉田家の養子となる。五歳で山鹿流兵学の師範を務めた天才。21歳で江戸に遊学。洋学者・佐久間象山、肥後藩士・宮部鼎蔵等と親交を結ぶ。嘉永6年(1853)ペリーの来航に遭遇。自らの家学である『山鹿流兵学』では列強に対抗できないと渡航を決意。同年10月に長崎でプチャーチン率いる露船に乗り込もうとして未遂。安政元年(1854)ペリーの黒船に乗る計画を建て下田で決行するも失敗し入獄。安政2年(1855)出獄。安政4年(1857)から 萩の松下村塾で後輩を指導(この時期の功績大)。安政6年(1859)10月安政の大獄で刑死。享年29才

司馬遼太郎の小説はこの吉田松陰と高杉晋作を主人公にしているが、見るところ高杉晋作の方に力が入っている。僅か、30年足らずの松陰の生涯は、坂本竜馬に劣らず劇的であるが、教育家としての評価を高くし、革命家としての松陰には今一つ魅力を感じて居ないようだ。作者・司馬遼太郎の解釈によれば「純粋培養された天才」としての松陰は「過激者」であり、「その行動はどうにもならず飛躍」「自分自身の静止を恐れ」「つねに活動体」であろうとしていた。さすれば、彼の引き起こす数々の事件は、その「思想」ではなく「行動」そのものによってのみ大きなインパクトを与えたのではなかろうかと解釈される。

        
  (弁天島海岸)
          (弁天島全景・借物写真)               (松陰野宿の祠)

 その狂気の行動、密航の足跡を追ってみる。
 江戸を出発して横浜・鎌倉(叔父の住む瑞泉寺に立ち寄る。その記念碑が寺にある)・小田原と神奈川県を横断、そこから警戒厳重な箱根を避けて根府川・熱海に抜けて難所の韮山峠を越えて伊豆に入る。天城峠をこなし下田に至るが、この間の五日間(今ではたった2時間強)は難行の連続であったろう。
 下田での行動はまさに「暴挙」。事前の準備と言えば「ペリー宛の漢文の手紙」だけで、語学や船の手配などは「何とかなるさ」だったらしい。3月25日 下田柿崎海岸(弁天島)で小船を盗んで旗艦ボーハタン号を目指したが風浪のため失敗。弁天島の祠で眠る。翌26日 深夜2時。再度の挑戦。無事にペリー艦隊の旗艦に漕ぎ寄せるも許可降りずに失敗。小舟で戻され柿崎の名主・益田忠右衛門宅に自首。下田奉行所に入獄。後江戸に送還。
 出発前の壮行会で親友宮部鼎蔵がいみじくも「自分の死をもって詩をつくろうとしている」(誰にとっても青春とは一編の詩であるが)と諭した言葉が記憶に新しいが、この密航事件は「失敗すれば死罪」を承知の上にしては「無謀」であり、「若者の狂気」を思わせる。まさに「若書き」の詩であった。
 彼が今少し長生きして、その革命思想を練り上げていたならば・・・と惜しまれる。さすれば、門下生(伊藤博文・山縣有朋・井上馨・・・)が幸運にも明治の元勲に成ったが故に歴史に名を残したのではないか・・・と皮肉られることもなかったであろう。また、「大和魂」「玉砕」の言葉を多用した彼を昭和の軍国主義者達が勝手に利用することも出来なかったのではなかろうか。
 筆者は司馬遼太郎の愛読者であるが、正直な所、「世に棲む日々」は「竜馬は行く」「坂の上の雲」「峠」のようには夢中になれなかった。しかしながら、この小説にも「明治維新を成し遂げた若者の純粋なエネルギーの塊」のようなものがあちらこちらに顔を出し、「平成の閉塞」を破るためにはそんなマグマが必要なのかもしれない・・と考えさせられる。おっとこれは横町の隠居の独り言
 先を急ごう。

     
  (三穂ヶ崎を臨む見晴台・クリックすると拡大))                        (与謝野夫妻歌碑)

須崎の御用邸の分岐点を過ぎると、道は小さな峠を越える。相模灘にほんのちょっぴり頭をだした半島、目指す「三穂ヶ崎の遊歩道」へと運転手に案内を乞う。
「三穂ヶ崎遊歩道は、ほら、あの所から入って行くのですが今は草生して行けませんよ」と車のスピードを緩めて案内してくれる。成る程、遊歩道らしいものは見当たらない。更に数百メートル先で態々路肩に車を寄せて、「あの崖下を歩く道もあったのですが・・・」と運転手はどこまでも「遊歩道」にこだわる乗客に親切に付き合ってくれる。しかしながら、「遊歩道」はどうやら廃道の様子。
 それではと「三穂ヶ崎遊歩道の見晴台に与謝野寛・晶子夫妻の歌碑があるはずだが」と探し物を詳しく説明した。すると「この先に見晴台があり、歌碑らしいものがあったはずです」と嬉しい返事。
 そこは三穂ヶ崎と白浜海岸の中間点近く、道路脇の見晴台で、三穂ヶ崎の小さな半島が海に浮かぶ。どうやら「三穂ヶ崎遊歩道の見晴台」は「三穂ヶ崎を展望する見晴台」の誤りだったようだ。
歌碑は駐車場の脇にこぢんまりと建てられていた。

「白波の沙(すな)に上りて五百重波 しばし遊ぶを逐ふことなかれ」(晶子

「てん草の臙脂(えんじ)の色を沙に干し 前にひろがるしら浜の浪」(寛)   

碑陰に「昭和10年2月 伊豆一周5日間の旅で土肥、堂ヶ島、下田と廻って白浜に来遊.平成3年建立」とあった。
 この「昭和10年2月の伊豆の旅」は与謝野夫妻にとって忘れることの出来ない旅。と言うのも寛はこの旅の途中から風邪を引き、それが原因で肺炎となり3月26日に帰らぬ人となったからである。遺作となった「色即是空」には「限りある命を抱けば我れ祈る 野べの梅にも春久しかれ」の歌もあり碑面の叙景の歌と合わせて読むと一層感興が増してくる。左手の岬を廻ればすぐ白浜の海岸で、歌の内容からすればその海岸の方に建てた方が相応しかった。

柵越しに海を見て、あっと驚いた。
 黒潮洗う海岸を想像して覗いたのだが、浜大根の花に飾られた崖の向こうには意外にもサンゴ礁のラグーンがあった。数千キロの黒潮の旅路に疲れて、この小さな入江で休息中なのだろうか。ここは岬一つ隔てただけで別世界の様相で強く心に残った。

               
       (白浜海岸・北原白秋歌碑)              (白浜海岸・岬の向こうが見晴台)

白浜海岸は想像していた以上に美しく、写真に収め切れなかった。道路から水辺まで100程の間は白浜の名に相応しい白砂に埋め尽くされ、小さな砂丘を形成している。2kmほどの海岸線は両端を小さな緑の岬で抱かれて、波は穏やかな遠浅にゆっくりと広がっている。
 海岸線の中ほど、ドライブイン「レスポ白浜」の前に目指す北原白秋の碑があった。根府川石の巨大な碑であったが、台石は少し砂に埋まっており砂防対策の苦労が偲ばれる碑で、間もなくやってくる夏の賑わい時には両脇に添えられた浜木綿の花が美しく碑面を飾るであろう。

「砂丘壁に来ゐる鶺鴒昼久し 影移る見れば歩みつつあり」
    (昭和49年賀茂短歌会他建立・署名は自筆・碑面の歌は白秋夫人菊子女史揮毫)

  碑陰には「大歌人白秋は 昭和9年6月5日 高弟穂積忠を案内人として 天城山を越え 下田に出て土肥を過ぎ 伊豆を巡遊した その途次ここ白浜の海岸に遊び その折の詠出が白浜の砂丘と題して歌集「渓流唱」に三首収められた こよなく美しい私達の郷土が大歌人によって詠まれたことを誇りとしその人と文を永遠に敬慕するよすがとして・・・」と建立の経緯が刻まれていた。

白秋が訪れたと同じ時期に来合わせたこの日の海岸は、まばらな人影を白と青の二色のキャンバスに散りばめ、夏を待ちかねた若者が遠くの海中に浮かぶ風景は鶺鴒の水浴びの様子に見えた。 きっとここは山頭火ご推薦の高級「野宿ホテル」に違いない。パンフレットには「満天の星のシャワーや見事な風紋を描く白砂の食卓での豪華な海の幸が貴方を満足させてくれる筈です」と書いておこう。

三穂ヶ崎の遊歩道をのんびり散歩する予定が狂ったので、運転手が自慢する「白浜神社」を訪れることにした。白浜の東端の小さな神社は、伊豆一の宮の格式を誇る神社で、著名な三島市の三島神社はここから遷座したと運転手が自慢するだけの事はあった。緩やかな石段を奥の神殿まで杉木立に囲まれて歩くと、今日一日の高揚した気分はいつしか鎮められて行く。境内で地元の歌人の歌碑や柏槙の古木を眺め、3時前のバスで白浜海岸を発って、下田駅に向かった。

 花の旅の土産に、母に捧げる「紫陽花」の詩稿を包み、「爪木崎の水仙(12月)」「白浜の浜木綿(8月)」の写真を添えて大事に持ち帰る事にした。

               
    (爪木崎水仙群落)    (何れも借物写真)(母が大切にしていた浜木綿の花)

                          (2003.07記)
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