室蘭本線 昭和50年春

 この頃、それまではほとんど見ることのなかったDL牽引の貨物列車がかなり増えてきていました。中には落成直後ではないかと思われるようなピカピカのDLもいて・・・。「SLダイヤ情報」で「D51牽引」と書いてあるはずのスジに赤いDLが入ってくることもしばしばあって・・・。そうなると「しばらくD51ばっかりだからメシ食いに行こう!」などというバチアタリなセリフは吐けなくなってしまいました。当時は珍しかったDD51+DE10の重連が牽く貨物。DD51が保護色っぽくなってわかりづらいですね。
 (↓1975.3.31 早来〜安平 6371レ)

DD51+DE10 貨物

 その長いDL貨物の後を、寂しくD51の単機が走っていく・・・。なんだか象徴的な光景でした。
 (↓1975.3.31 早来〜安平 単4281レ)

D51単機

 この頃のD51は(特に岩見沢一区のカマは)もうクラに掃除する人が少なくなって手が回らないのか、薄汚れてドロドロの状態で走っているのが多かったです。毎日出区前に磨いていればこんな姿にはならないはずですが・・・。同じD51でも北見区の150や444はきれいだっただけに、見ていて残念でしたね。
 (↓1975.3.31 早来駅 5790レ)

早来駅 D51767

 室蘭本線は全線ほとんど平坦線。わずかに何箇所か、ゆるい勾配のある場所がありましたが、それでも勾配はせいぜい4‰程度。登別の駅の西側が小さなサミットになっていましたが、軽編成の列車だと煙が出ないこともしばしば・・・。前のページのC57と同じ位置から捉えたD51貨物。この列車はけっこう重い編成でした。煙が出すぎたおかげで手前がシャドーに・・・。(^^;
 (↓1975.3.30 登別〜富浦 2350レ)

登別〜富浦 D511127貨物

 そのさらに西側。富浦からはトンネルをくぐって登別に向かってゆるい上り勾配。背後には太平洋に突き出した岬が見えていました。ここは太平洋の波の音もかすかに聞こえてくる場所でしたね・・・。
 (↓1975.3.30 富浦〜登別 227レ)

富浦〜登別 C5738 227レ

 こんな平坦線ですから、やはり煙を確実に狙うということになると、特にC57の客レの場合はどうしても駅の発車ということになります。栗丘の駅は朝の9時過ぎに下り223レと上り224レが立て続けに来るので、発車狙いとしてはかなり人気のある場所でした。

栗丘駅キップ

 下は岩見沢行223レ。牽引機は「百恵ちゃんのSL」ことC57135。この頃はまさかファイナルトレインを牽くカマになるとは夢にも思ってませんでしたが・・・。
 (↓1975.4.2 栗丘駅 223レ)

栗丘駅 C57135 223レ

 223レが発車していってから10分ちょっとで長万部行224レがやってきます。「室蘭本線」を全通する普通列車ってこれだけだったんですよね。223レを撮ったその足で急いで駅の南側に移動。この牽引機のC57144、岩見沢一区に残った5両のC57のうち唯一の二次型でした。もっともC57の一次型と二次型というのは見かけはほとんど区別がつきません。テンダの台車が変わっているくらいですから・・・。このカマは今も岩見沢市内に保存されているはずです。
 (↓1975.4.2 栗丘駅 224レ)

栗丘駅 C57144 224レ

 栗山〜栗丘というのは室蘭本線で一番長いサミット越えだと思いますが、それでもさっき書いた通り、せいぜい4‰。軽編成の227レを牽くC57はほとんど煙ナシでサミットのトンネルに近づいてきます。それもかなりな速度で・・・。よく見るとC57のテンダが下半分白っぽくなっていますが、これは春闘の名残(今は「春闘」自体ほとんど死語ですよねぇ・・・)白ペンキで「春闘勝利」とか「要求貫徹」とか書いてあったのを消した痕ですね。同じ消すんならきれいに消してくれ〜〜!とも思うんですが、毎年やってるもんで地の色自体が変わっちゃってたのかも。
 (↓1975.4.2 栗山〜栗丘 227レ)

栗山〜栗丘 C5738 227レ

 この時の旅はわずか6日間・・・往復で1日取られてますから実質的には中四日だけ。
 なまじクラブ活動などやっていたのを後悔しました。この時ばかりは・・・。
 この頃、すでに都内各駅にはマルスが入っていたのですが、どうしても手書きのキップがほしくて、当時まだみどりの窓口がなかった西日暮里の駅に行って往復の指定券を買いました。これだけは色も褪せずに残ってますね。マルス券や自販機券はもう印刷が消えようとしてるものもありますが・・・。
特急券 はつかり5号 特急券 おおぞら1号
特急券 はつかり1号 特急券 北海