「みかん・絵日記」考  〜我が家の動物誌〜


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この漫画では主人公のみかんが「人間語をしゃべる猫」ということになっていて、それがこの作品の骨格になっているんですが、さっきもちょっと書いたけど「人間が動物と会話する」というのは誰しも子供のころに一度は夢見たことだと思います。
というより、そうできると信じていた時期があった、いや今もそう信じている大人もたくさんいるんでしょう。
この思いは万国共通のようです。
子供のころ、夢中になって読んだ本がありました。
「ドリトル先生航海記」

ここでは動物が人間の言葉を話すのではなく、人間が動物の言葉を話します。
動物の言葉を話すことのできるドリトル先生と動物たち、そして10歳の助手トーマス・スタビンズの冒険物語。この本を買ってもらったのは小学校三年の頃だったかなぁ、感情移入しまくりでしたね、「スタビンズ君」に。(^^;
考えてみれば、昔は誰でも子供のころは自分と動物たちとの間に垣根はなかったはず。誰でも自分の家で飼っている犬や猫や小鳥と話ができていたはずなんです。それが、いつのまにか大人になって「そんなの夢物語だよ」なんて言うようになって自らその能力を失ってしまっただけなのでは?一握りの、子供のころの心を失わなかった幸運な人だけが大人になっても動物の心がわかる…そうなんだと思う。私はその幸運な中の一人だったかもしれません。
写真撮影のメインフィールドを鉄道からにわかにネイチャーに移しても違和感なく溶け込むことができたのは、それが一因になっているのかもしれません。
さて、みかんはなぜ人間の言葉が話せるのか…。
これについては4巻に、みかんによる回想という形で詳しく描かれています。
地方の山村。ある春先の冷たい雨が降る日、そこに住むタツゾウという独り暮らしの老人が捨てられていた4匹の子猫を拾います。
タツゾウじいさんはかつて息子夫婦とともに町で暮らしていましたが、町の暮らしには溶け込めず、今は田舎に戻っての独り暮らし。拾った子猫のうち1匹は体が弱くて死んでしまい、残ったのは3匹。当初は3匹とも里子に出すつもりでしたが、ジェリー、マリーがもらわれていくと急に寂しくなって、トム(=みかん。タツゾウじいさんが名付けた名前は「トム」でした)を手元に残すことにします。
季節は春へ。おじいさんとトムとの絆は徐々に深まっていきます。

「みかん・絵日記」 4巻

(白泉社「みかん・絵日記」 第4巻 より)

やがて日が経つにつれて、トムがへんな鳴き声を。
「う」「ぶ」「みっ」「む…」
やがてそれは人間の言葉のように聞こえていき…。ある日、「じィ…さん」と幼な子のような声が。
それを聞いて「少々自分もボケてきたかな」とも思ったおじいさんでしたが、「それでもいいか」と笑って…。でもそれは決しておじいさんがボケたのではなく、トムがおじいさんと話したい一心で必死に人間の言葉を練習していたのでした。そして…。
ある日とうとう、
「ごは〜ん!」と大声でしゃべってしまったトム。
それを聞いたタツゾウじいさんは大喜び。それからというもの、毎日のようにトムに人間の言葉を教えるようになります。
ところが、それからしばらくしてトヨばあちゃんの前で人間語をしゃべってしまったトム。タツゾウじいさんは「ワシのいたずら」だと言ってごまかします。
その夜、じいさんはトムに…。
「あのな、トム。さっきみたいにしゃべるのはワシ以外にはやめたほうがいいな…」
「じィさん、いや?オレ、しゃべるの…」
「…いや、ワシはいい、ワシはいいが…世間では猫が言葉を話すってのはちょっと変だって…思われるでな…」
「わかった。オレ、言わない。しゃべらない…」
「でも、ワシにはしゃべっておくれな」
「…いい!それでいい!オレ、じィさんとだけしゃべれればいいと思ってたんだよ!」
こうしてタツゾウじいさんとトムとの楽しい日が続いていきます。季節は移ろい春から夏へ、そしてまた秋へ、冬へ…。
でもこの幸せは長くは続きませんでした。
ある日、おじいさんは病に倒れてしまいます。降りしきる雪の中、町の病院に送られるおじいさんを乗せた車を泣きながら追いかけるトム。
やがて何日か経って、タツゾウじいさんは冷たい体になって家に戻ってきました。
おじいさんの亡骸を前にしてトムは涙に暮れます。そして…。
「じィさん…朝だよ。起きようよ…」
「ごはん、ちょうだい…」
悲しみのあまり大勢の人のいる前で人間語を話してしまったトム。
しかし、それを聞いた周りの人々は…。
「その猫!…化猫だ!外に出せ!!」
かつておじいさんが心配していたことが起こってしまったのです。
追われるようにして家を出たトムの前にタツゾウじいさんの幼馴染であるトヨばあちゃんが。
「私は頼まれたんだよ、タツゾウさんに。お前のことを…。化猫でもなんでも許すから…ここにいろ」
「ありがとう、ばあちゃん…でも…さよなら」
こうしてあちこちをさすらうようになったトム。人に近づいては気味悪がられ、逃げて、また寂しくなって人に近づいて…。
それを繰り返すうち5月のある日、広場で「トム!」と呼ぶ声が。
振り向いてみると、その声に応えていたのは小学生の男の子。
「なんだ、オレのことじゃないのか、あの子の名前か…」
これが吐夢とトムの最初の出会い。やがてトムはその男の子についていき、結果的に草凪家に居付くことになり「みかん」と名づけられます。その後、人間語を話す猫だということも草凪家の皆さんはいともすんなりと受け入れ、世間様には内緒にしながらもみかんを家族の一員として受け入れることになります。
この4巻はコミックス全14巻および特別編3巻を通じて、私の一番好きな話ですね。
大好きなおじいさんと話をしたくて、必死で言葉を覚える幼いみかん、いやトム。
言葉というのは単なる情報伝達の手段だと私たちは事務的に考えてしまいそうですが、本来は…自分の言葉を待っている人のためのものなんだと。同時に、そうでない人にとってはただの雑音あるいは騒音に過ぎないのかもしれないと。
さらに、自分にとって大事な人との絆の温かさ。
おじいさんがトムを抱いているシーンのバックに書かれていた言葉が心に沁みます。
  
ずっと一緒にいられるといい
この世で一番大事な人が
自分のそばで笑っていれば
他には何もいらないよ

「みかん・絵日記」 4巻

(白泉社「みかん・絵日記」 第4巻 より)

皆さんにとって、こう言える人は誰ですか?大切な人は誰ですか?
誰にだって必ず「大事な人」はいるはずです。
本当の言葉とは…その人のためにあるものだと、私は思います。
そして、その大切な人を失うことの悲しさ。
これは、多くの人が身を以て体験しているはずです。だからこそ、今いる「大事な人」との絆は大切にしなきゃいけない…。
私自身、14年前に父を失いました。
つい前日まで元気で釣りに出かけていった父が、電話を受けて病院に駆け付けた時にはもう臨終の床でした。
男同士、ああいう話ももっとしたかった、こういう話もしたかった…その時になってとめどない悔いが。
母は傘寿を過ぎて今なお健在ですが、だからこそ今できることをやってあげておきたい。日ごろしょっちゅう撮影に出かけているような私ですけど、そうでない日は母親を連れて近隣をそぞろ歩きしたり、近場に遊びに行ったり、家で昔話の聞き役になったりしてます。父親の時のような思いはしたくないから…。
もうひとつ、私にとっては…。
この話は…今までごく限られた友人と当時の会社の同僚、それに親族しか知らない。それ以外の人には誰にも話さなかったけど…30年近く前の話だし、もういいよね。いや、もともと隠す話でもないはずだし。
私の父が勤めていたA電化という会社は当時尾久に巨大な工場を持っていて、その当時の東尾久北側一帯は「A電化の城下町」とまで言われていました。(いまでも熊野前から町屋三丁目に至る道路には「A電化通り」という名前が残っています)小学2年の時に私たち家族が入居した社宅はそのうちのほんの一部「熊野前社宅」と言われていたもので、実際にはこのほかにもあちこちに無数の社宅がありました。
前に書いたとおり、私の父はすぐ上の兄である伯父と同じ会社に勤めていたのですが、当初、伯父は私の家の斜め裏に住んでいました。おばさんは優しい人で遊びに行くといつもお菓子を出してくれて、真っ白なスピッツが一匹。そして娘が一人。私の従妹に当たり、私より一つ年下(学年は二つ下)でしたが、親同士が兄弟ということもあって自然毎日のように行き来があり、私たちは兄妹のように育ったと言っていいでしょう。私が小学6年の時に伯父の家には二人目の子供=男の子が生まれ、六畳+三畳の今の社宅では手狭になったということで会社に申請してより広い間取りのある社宅に移ることになりました。と言ってもそう遠くではなく大門小学校の近くで、熊野前から歩いていっても子供の足でも20分ちょっとあれば行ける場所で、私は日曜というと遊びに行っていたものです。
やがて尾久工場は漸次茨城県の鹿島工場に移転することが決まり、私が中学の時にA電化尾久工場にいた全社員に鹿島に移るか、それとも尾久に残って関連会社に勤めるかの選択肢を迫られることになりました。とはいっても本人の希望がすべて受け入れられるものではなく、実質的にはほとんどの工場員が鹿島に移され、尾久に残れるのはほんの一握り。しかも尾久に残る場合関連会社ということで待遇面では悪くなるかもしれない、と当時言われていたそうです。(このあたりの話は今は亡き私の父から聞いていたものですが)
「5年後完了をめどに全工場が逐次鹿島に移転」
折から、成田空港建設に伴い過激派の闘争が本格化し始めていた時期で「燃料パイプラインが予定されている鹿島は過激派の攻撃対象になっている」という噂が流れていました。そこに移転するというのですから、これから進学を控えた中学生の子供を持った親にとっては悩ましい通告だったと想像します。
結果、伯父は鹿島移転を拒否、会社を退職し千葉の実家に戻ることになりました。その頃実家の当主になっていた四男の伯父に土地を借り、農業を営むことにしたのです。
片や、私の父は残留を決意。家族そろって鹿島行きを覚悟していたのですが、幸か不幸か鹿島行きは免れ、当時尾久橋のたもとに新設された関連企業に移ることになりました。
その後、私は夏休みなどの長い休みのたびに父の実家に遊びに行くようになったものです。それまでは、どちらかというと茨城の母の実家に遊びに行くことのほうが多かったのに、それが逆転してしまったものだから母の実家からは「最近全然来なくなったねぇ」と訝しがられたほど。
何が目当てだったかといえば…そう、わかりますよね。従妹です。
しかしそれも高校一年くらいまで。それ以降はお互い恥じらいもあり、あるいは人の目を気にするようになって次第に足が遠のいていったものです。
やがて大学を卒業、就職。その時にはもう私たちも荒川の社宅を引き払い、春日部に家を建てて移っていましたが…。
社会人になって三年、ご多分にもれず、私もそれなりに遊びも覚えていました。しかし、なぜか女の子の扱いだけはヘタだったような。いや、これは私が言うんじゃないですよ、当時の同僚が皆そう言うんですよ。
私は目立ちたがり屋でけっこう先頭切って騒ぐタイプ。だからいつも集団の中心にいました。「人間磁石」と言われるくらい、人を集めて騒ぐのは得意だったのですが、いざ一対一となるとからきしダメ。
同僚から「お前、女の子『で』遊ぶんじゃない!女の子『と』遊ぶようにしろ!」と言われてしまい…。(-_-;)
25歳ともなれば当然周りから「そろそろ身を固めろ」という話も出始める時期。でもそんな調子だから、付き合う女の子はいてもモノにならず。同僚ばかりか親父までも「お前は女となるとからっきしダメだな!」なんて言う始末。情けない…。
母がいくつか見合いの打診をしたようですが、長男一人息子ということで「親と同居が前提」となるとなかなか応じてくれる人もなく、ダラダラと時間が経つばかり。もっとも気をもんでいるのは両親だけで本人はのほほんとしていたんですが。結婚なんて30くらいになってからでいい、と思ってましたし。
ところがその年の5月の連休が明けたころ、突然話が舞い込みました。
ある晩、父が急に改まって「話がある」と。
「お前、千葉の洋ちゃん、嫁にもらう気はないか?」
目がテンになりましたね。でも、心の底では…。(^^;;;
なんでも、伯父のほうから出た話だったそうです。この間休みまで取って千葉に三日も行ってたのはその話だったのか。
「嫌か?」
「…別に、どっちでもいいよ」照れ隠しにわざと仏頂面で答えた私でした。
「なんだ、その言い方は!」と親父に怒鳴られましたが、正直、本心は嬉しかった。(^^;;;
従兄妹同士の結婚。
今では「そんなのあり〜?」とか言われそうですが、当時地方ではそう異端視もされていませんでしたね。現に私の父も本当なら従妹と縁組をされることになっていたんですから。まあ、そうなってたら私は生まれてないですけど。(^^;
千葉の田舎には父の墓参にくっついて年に一度行く程度でしたが、その度にやはり従妹が気になって「まだ嫁に行かない」と聞くとちょっとホッとしていましたからね。
1984年の11月。私たちは結婚しました。
式は旧家のしきたりに則り千葉の本家で挙げました。
正式な見合いをしたわけでもない。といって大恋愛をしたわけでもない。それでも何の違和感もなく私たちは新しい生活に入っていきましたね。敢えて言えば、幼馴染がそのまま結婚した、というのが一番近い表現でしょうか。
とにかくお互い、子供のころから知っているので長所も短所も知り尽くしていて、やりやすいといえばやりやすかったし、やりにくいといえばやりにくかった。(^^;;;
ただ、少なくとも多くの夫婦が抱える「性格の不一致による不和」ということだけにはなりようがありませんでしたね。そういう点では恵まれていたかもしれない。
昔の延長、というワケではないんですが結婚してもお互い子供のころの呼び名で呼び合ってましたね。それで何の不自然も感じなかった。田舎で10年近くを過ごしたせいもあって妻はすでに運転免許を取っていました。嫁入り道具とともに自分のクルマも持ってきたので、ちょっと出かけるにも私は助手席でふんぞり返っていればいいのでラクチン。(^^;;;
でもさすがに言われましたね。「逆でしょ!」と。
「クルマってのはねぇ、旦那さんが運転して奥さんが助手席に乗るのが当たり前なのよ」
「誰がそんなこと決めたんだよ?」
「誰がって…みっともないでしょ!ちゃんと免許取ってよね!」
「ハイハイ、取りますよ取りますよ…そのうちに」
でも、結局なんやらかんやら理由をつけて後延ばしにして…ルーチン的に苦情を言われながら。(^^;;;
当然、私の両親と同居なんですが、一般の嫁姑とは違いこちらも昔からの顔なじみのようなものなので仲がいいこと。
時には女同士スクラム組んで私をやりこめることも度々あって往生しましたが…。(^^;;;
1986年の5月、妻の懐妊が判明。今でこそ胎児の性別がわかるのは当たり前ですが、その頃はその超音波測定がようやく一般化され始めた時期で、テレビでも話題になっていました。秋になると父も母も「男か女か診てもらえ!」と散々私たちをせっついたのですが、私たちは「生まれてからの楽しみにしておいたほうがいいよね」と。
次の年が明けて松が取れて間もなく、妻は出産のために千葉に里帰りすることに。ちなみに今は「出産里帰り」ってあまりしないのかな?
義母が車でやってきて一晩泊まり、翌朝、妻を後部座席に乗せて実家に戻っていきました。
しばらくはちょっと自由になるな、という思いと寂しさと、そして期待と…。
その日の夕刻、突然鳴った電話。電話に出た母の声色が変わる。私を呼ぶ。
「洋ちゃん、死んじゃった…」
一瞬、私は母の言葉が理解できなくて「え?何?」と聞き返していました。
それは警察からの電話でした。
実家に戻る途中で交通事故を起こしてしまったのです。
酒々井の町はずれの県道で反対車線で追い抜きをかけていた車がこちら側の車線にはみ出して義母の運転する車に斜めに衝突、そのまま車ははじき飛ばされてガードレールに激突したということでした。
運転していた義母は重傷ながらも命は取り留めましたが、後部座席にいた妻は即死。もちろんお腹の中の子も…。
翌日、警察に遺族調書を取られ、いろいろ話を聞かされたはずですが、自分でも何を聞いたのか、何を言っていたのか覚えていない…同席した母の話では淡々と応じていたというんですが、本人は全然覚えていない。
ぶつかってきたのは30代の男が運転する外車。そいつも負傷したもののさほどの深手ではなく、しかも事故時は酒気帯びで運転していたということを聞いて「殺してやる!」という激情が湧いていたのだけはよく覚えてます。生まれてから今まで五十数年、本気で「人を殺したい」と思ったのは後にも先にもこの時だけでしょうね。
幸い遺体は上半身には激しい損傷はなく、対面した時は顔の表情も苦痛にゆがんでいるようでもなく…。
寝ているんだ、と言われれば…下半身を覆う白い布さえ見なければ…、たぶん私は、
「いつまで寝てるんだよ…起きようよ」
と声をかけていたでしょう。
周りから見て「おかしくなったか?」と思われたとしても…。
それからというもの…もちろん喪が明けてもまだ30前の身でしたから、両親はほどよいところで再婚を、と考えていたようです。
もちろん私とてそのつもりでしたが、そうするにはあの2年ちょっとの結婚生活はあまりにもきれいな思い出しか残っていなかった。短かったからこそなおさらなんでしょうが、それが心の片隅から離れない。蓋をすることができない。
当初は気が進まなかったですが、いずれ親の面倒を見なければならないのだからという思いは当然あって…。
それから十数年、何度か見合いもありました。。
しかしもともと、長男一人息子で親と同居という不利な条件を背負っていて見合いの口も少ないところにもってきて、見合いをしても断られることが多かったですね。恥さらすようですが。それは、私の持つ価値観が相手方と折り合わなかったことが原因であることが多かったのでしょう。車の免許を持っていないというのもマイナスだったでしょうね。
もともと妻と死別、というのは見合いの時は相手方にあらかじめ伝えてあったわけですから、それが原因であるはずはない。でも一度だけ…見合い後の交際を数回続けた後、相手から(というよりその介添人を通じて)「亡くなった奥様のことがふっきれてないんじゃないでしょうか」と言われたことがあります。
死んだ妻のイメージがまだ残っていて、無意識のうちに相手と比べていたんでしょうね。そうかもしれない。いや、そんなことじゃいけないのはわかっているんです。わかっていたんですが。
たぶん洋ちゃんも空の上から「ダメだよ、それじゃ〜」と言っていたんだと思いますが…。
妻との約束であった運転免許、とうとう取ることはありませんでした。
というより、車というものに私は深刻な嫌悪感を抱いてしまったのです。
自分の大切なものを奪い去った存在…それはトラウマに近いものとして私の心に烙印を捺してしまいました。
そう、遠い昔、チーの命を奪ったのも車だった。
「C62ニセコ」が走りだしたのは妻が死んだ1年ちょっと後。今にして思えば、あの年を皮切りに次第に汽車撮影に傾斜を深めていったのも、一種の「反動」なんだと思います。それまでは、年に1〜2度大井川に行くだけ。とても「鉄ちゃん」などと呼べる存在じゃなかったと自分でも思ってますから。
結局、ふっきることができなかったんですね、ずっと。
その間、偶然なきっかけから個人的に付き合うようになった女性がいなかったわけじゃない。
でも、なぜか昔のことを話せなかった。もしそのまま、先々結婚を、というのであれば当然話しておかなければいけないことであるにもかかわらず…。
ところが一度「他に好きな女の人、いるんでしょう!」と言われた時は、なんとなく臓腑をえぐり出だされたような気がしましたよ。
どういうつもりでそう言ったのか、本気だったのか冗談だったのか、今となっては知る由もありません。
その一言を聞いて、その場ではっきり白状すればいいものを結局黙り込んでしまい、その後縁遠くなってしまって。
いや、言えなかったのは結局私自身がその気になれなかったのかもしれない。誰が悪いわけではない、私が悪いんですよね。
女性は既婚歴のある男性の「生別」よりも「死別」を嫌う、というのは本当でしょうか…?
「みかん・絵日記」の1巻。
草凪家に居付くようになったみかん。人間語を話せるということを吐夢以外の人には隠しておこうとします。吐夢は自分の両親だけにはそのことを教えたいとみかんを説得するのですが、みかんはなかなか首を縦に振らない。
「オレ、やだよ。バレたんでもない限り、いくら世話になってるからって自分から話すつもり、ないからね」
「しゃべって驚かれるの、もう飽きたの。…だからしゃべんないの〜!!」
それでも吐夢の説得の末、みかんは吐夢の両親に向かって人間語をしゃべることを決意するのですが、いざその場になるとふんぎりがつかない。声をかけて振り返られると逃げてしまったり…。
ある夜、吐夢を前にして妙に気合いの入った言葉を吐くみかん。
「オレ、明日こそ言う。明日こそ言うからね」
「焦らなくてもいいけどね…」
「ううん、絶対言う!…パーッとバラしちゃって、後は野となれ山となれ、なの!ダメなら出てきゃいいんだし…」
「みかん、お前、最初から出ていく気でいるんじゃ…」
「……」
「みかんのバカ!結局、おじいさんしか信じてないんじゃないか!僕だっているのに…」
「だって、やだ…もん。オレやっぱり変な目で見られるのやだもん…じィさんいないもん…やだっ!!」
おじいさんが一番、おじいさん以外の大人は皆一緒…。

「みかん・絵日記」 1巻

(白泉社「みかん・絵日記」 第1巻 より)

結局、それを目撃していた吐夢の両親にみかんの秘密はバレてしまうことになりますが、おっとりしたこの夫婦はみかんが人間語を話せるという事実をすんなりと受け入れ、みかんは晴れて本当の家族の一員になるのですが…。
なんとなく、この時のみかんの気持ち、私にはわかるような気がするんですよね。(^^;;;
それを人は臆病というかもしれない。なんでその程度のことできなかったの?と言われるかもしれない。そう言われても一言もないけど、でも今となってはそれを後悔していないのも事実。
みかんを受け入れた菊子お母さんがみかんにこう言います。
「…今まで、みかんちゃんが会った人の中にも、私たちみたいにみかんちゃんを喜んでくれた人、いたかもしれないわよ?そうわかる前にみかんちゃんがいなくなっただけで…いたかもしれないわねぇ」
そうかもしれません。
でも、私は今となってはこれでいい…みかんは新しい家族を見つけることができてハッピーだったけど、私は今のまま昔の思い出を抱いてるだけで充分幸せだから。
八十を過ぎた母が、最近よく言います。
「結局、誰が嫁に来ても洋ちゃん以上の人はいなかっただろうね」
そう、母親との相性を考えてもそうだったかもしれない。嫌でも同居なんだから…。
孫の顔をとうとう見せることができずに終わるのは本当に親不孝だなぁ、とは思ってはいますが。
一命を取り留めた義母は右脚に障害が残ったものの、その他には後遺症はなく、一人息子をしっかり育て上げ6年前にこの世を去りました。義父もその後を追うようにして3年前に他界。
その一人息子、私にとって義弟でもある従弟は姉に似ておっとりした性格で、それが災いしたか彼は晩婚。義母が亡くなる前年に37歳で結婚しました。今では一男一女の父で、私にとっては親族の中でもっとも気安い存在です。
時折墓参を兼ねて私の家に遊びにきますが、これが私ほどではないにしろかなりのノンベ。
で、酒の席になるとよく言われるのは…
「結局さ、姉さん以外に義兄さんを御せる女っていなかったんじゃないかな?義兄さん、わがままで子供だから。(笑)」
「お前に言われたくないよ!」
でも、その通りかもしれないな、と時々思うんですよね。
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