「みかん・絵日記」考  〜我が家の動物誌〜


4
この「みかん」という猫、性格が私によく似てるなぁ〜、と。
大酒飲みという点を別にしても(もっとも私は「またたび酒」は飲まないけど)、わがままだから…。
人がなんと言おうとやりたいと思ったら「やるっ!」、嫌いだと思ったら「やだっ!」とはっきり言う。人の言うことにお追従なんか絶対しない。(^^;
それでいて「こっから先はやっちゃマズイよな」という計算高さもちょっとあって…。
好き嫌いがハッキリしてます。好きなものは好き、嫌いなものは誰が何と言ってもキライ!
そうかと思えばお節介な一面もあって、自分勝手なことやる割にはけっこう寂しがり屋な面もあって、妙に涙もろい。
「一人になりたい」と「誰かと会いたい」がいつも心の中で同居している。
誰しもそういう面は持っているとは思うんだけど、私の場合はそれが顕著だと自分でも自覚してます、ハイ。(^^;
昔から「猫が好きなだけあって、性格も猫そのものだよな〜」と散々人にも言われたし。いい意味で言われてたのか、それとも悪い意味で言われてたのか…たぶん後者なんでしょうねぇ〜。(-_-;)
でも、「猫はわがまま」という一般的イメージがあるけど、チーの例を見てもわかるように性格のおっとりした素直な猫だってけっこう多いんですよね。
この漫画でも猫キャラクターがたくさん出てくるけど、それぞれに性格が違います。
ちょっとオッサンくさいけど兄貴肌のクロブチ、甘えんぼのくせに引っ込み思案なカルマ、我の強い牡丹、優等生の賢三、素直で控えめなキリー、「箱入り息子」?のチビタロウ、優しくて面倒見のいい桃治郎(これは犬だけど)…。
もちろん漫画の世界だからそれぞれに擬人化されているんですが、たぶん実際の猫の世界でもこういう性格の違いはあるはず。
↑CD「みかん音楽日記」カバー裏表紙
前列は動物キャラで、左から牡丹、カルマ、クロブチ、キリー、みかん、モリー、賢三、桃治郎。
後列は人間キャラで、左から由紀彦、弥生、杏子、吐夢、藤治郎、菊子、世良、稲垣先生、しずよ。
でも「性格」というのは一面的なものじゃありませんよね。誰しもが自分の中にはさまざまな側面を持ち合わせているものです。お節介な面も引っ込み思案な面も、あるいは優しい面も冷たい面も、正義感も悪魔の心も…総てが同居しているはずです。「性格」というのはその側面のうちのどの部分が確率的に強く出ることが多いのか、ということだと思います。
だからこそ、引っ込み思案な人が勇気を奮い立たせることができたり、あるいは「あんなムッスリした人が」思いがけない優しい言葉をかけてきたりすることもあるわけで。本当は一つの言葉で律しちゃいけないのかもしれませんね。
人というものは(いや動物でさえも)、短い間の接触だけで判断しちゃいけないというのはそういうことでしょう。時間をかけて付き合ってみて、初めてその人のいい面も悪い面も両方見えてきて、そうなった時初めて「この人は自分と相性がいいか悪いか」ということが判断できるものだと思います。それがわかるまでには時には長い時間が必要だったりします。
6巻。
動物嫌い?のはずの稲垣医院の先生が捨て猫2匹を拾ってきます。「私は動物は嫌いです!」と自称していた先生。友人の大橋さんの海外赴任でその飼い犬の桃治郎(これがなんと「猫好き」の犬!)を「仕方なく」引き取っていて、大橋さんからも「本人が言うほど動物嫌いじゃない」とは言われていたのですが…。
「飼うんじゃない。里親が見つかるまで世話するだけだ!」と叫ぶ稲垣先生。みかんや草凪家の人々もお節介を焼いて里親探しに奔走。みかんがしっぽに「こねこもらって!」の紙をつけた風船を結びつけて歩く姿がけっこうかわいかったりします。(^^;

「みかん・絵日記」 6巻

(白泉社「みかん・絵日記」 第6巻 より)

でも結局里親は見つからず…。いや、医院の張り紙を見て申し出てきた人が一人いたんですが、その後なしのつぶてで音沙汰なし。
「肩すかし…か…ずいぶんなことしてくれる…!」落胆する稲垣先生。
それを知って草凪家の人々は子猫2匹を引き取ることを決意。涙に暮れるみかんに「きっといいことあるからお留守番していてね」と言い残し、家族三人で稲垣医院へ。
「ください!子猫2匹とも!」
それに対する稲垣先生の返事は…。
「ありがとう。…でも、譲れませんです。チビは2匹とも、わしが飼うんですよ」
「え?だって先生、動物はお嫌いじゃなかったんですか?」
「…そう思っていましたがね…思い出したんですよ。わしとて子供のころは犬も猫も好きだったことを…」
実は稲垣先生も子供のころ、子猫を親に捨てに行かされたという過去があったんですね。
「昔は動物の避妊手術などありませんでな。私も何度も捨てに行かされました。子供心にもそれがいやでいやで…そのせいですかな、いつしか動物とはかかわりあいを持ちたくないと思うようになっていましたよ」
すまんすまんと泣きながら、捨てるしかなかった子供の自分がそこにいる…。
「だから今度は、わしが育ててやらねばならないような気がするんですよ。…四十数年の歳月掛けて、『もうできるな。お前の力で守れるな』ってどこかの誰かさんが言ってくれたような気さえするんですよ…」
こうして二匹の子猫は稲垣先生に引き取られ「キリー」「モリー」という名前をつけられるのでした。稲垣先生曰く「稲垣医院の双子の『リリーズ』」。そう言った時の先生のカオはもうデレデレで、実はものすごく猫好きな先生だったという「本性」?が暴かれます。
人は時には、ある気持ちを心の奥底に長い間封印してしまうこともある…少なくとも、誰だってまだ子供のころは皆動物も鳥も好きだったはず。子供のころは誰だって、動物や鳥に向かって話しかけていたし、話ができると信じていました。そうでしょう?
4歳や5歳の子供が犬や猫に話しかけているのを見て「バカみたい」という人はいないはずです。いつのころからか、「大人の常識」というものが横から割り込んできて、それを「バカみたい」な行為だと思って封印してしまう。でも、それは封印する必要があるのかな、と思います。少なくとも私は言葉こそ介しないものの、ともに暮らした犬や猫とは心が通じ合っていたという確信がありますね。
いつしか「大人の常識」というものだけに引きずられて本来の心を封印してしまった時、人はこれまで見えていたものが見えなくなり、聞こえていたものが聞こえなくなるのではないでしょうか。
ちなみにこの2匹の子猫はどちらもメスで、キリーの方は育ったあと、みかんの「奥さん」になります。
アニメの方では稲垣先生は完全に「娘を持つ父親」状態になってしまい、みかんとキリーの結婚に猛反対するのですが、結局「できちゃった婚」を認めざるをえない羽目に。(第25話)
原作のほうでは2匹が恋仲になるまでの過程はゆったり描かれていて稲垣先生も反対しないんですけどね。まあ、アニメのほうの展開もそれはそれで面白いかな、と。(^^;
それにしても、最近は「捨て猫」というのは減ったのでしょうか。
稲垣先生が言うように最近は不妊手術が一般的になりましたから、昔と比べると減ったのでしょうが。まあ、もともとがノラならば仕方ないとは思いますが、許せないのは自分が飼い始めていながら子供が出来たからといって里親探しもせずに安易に箱に入れて道端に捨てる輩。それって殺してしまうこととどれだけ違うの?反論できる人いる?いないでしょ。
不妊手術をしないなら、子供ができることまでをも見越して飼うべきでしょう?
それができないなら、初めから猫飼うな!!!
もっとひどいのはアクセサリー感覚で猫を飼い始めて数年経ってから「大きくなってカワイくなくなったから人にあげちゃった」「保健所に持ってちゃった」とかいう人(なぜか不思議なことに女性に多い…)。
こういう感覚で動物飼っている人ってけっこういるんですかね?
「友達も飼ってて、なんとなく面白そうだから」
「猫飼ってるって言うと私もカワイク見られるから」
…なんて理由で猫飼う人もいる。
この人たちにとって猫は「モノ」であって「命」ではないんですね…。悲しいことです。
「ねえ、教えて…猫ってそんなにいらないもの?」
「誰も欲しがらず、いらないからって捨てちゃえるものなの?オレたち…」
6巻のこの話の中で、みかんがこう言って泣くシーンがあります。

「みかん・絵日記」 6巻

(白泉社「みかん・絵日記」 第6巻 より)

実は、私自身チーを飼うちょっと前、一家が社宅に入る以前に荒川土手で拾ってきた子猫を「かわいそうだけど、元の場所に戻してらっしゃい」と言われて泣きながら持って行った記憶があるんですよね。あれがあと半年遅ければ社宅に連れて行けたのに。それを知っているから、父も母も入居してすぐチーを貰ってきてくれたのかもしれません。
少なくとも、その後の我が家では…犬、猫、小鳥といろいろ飼ったけど(チーを飼って以来、我が家に動物がいなかったことはないんです。動物がいなければ夜も日も明けない家ですから)、どの動物も必ず命尽きるまで世話をしていました。天寿を全うしたのもいれば病気で亡くなったのもいましたが…。
猫だって犬だって人間と同じ尊い命。
子供のころ持っていたあの心を封印して鍵をかけてしまわなければ、誰だってそのことに気づくはず。
「子供のころの自分」を引き出しにそっとしまうのはいい。でも鍵はかけちゃいけないんじゃないかな…。
Back Home Next