「みかん・絵日記」考  〜我が家の動物誌〜


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「どうして十二支に猫がいないの?」
そう言って親を困らせたのは小学校一年か二年のころだったかな?学校で十二支を教えられたんだっけ…。
私は物心ついた頃から猫好きでしたね。なんでそうなったのかは当の本人もわかりません。こればかりは両親ともに謎だったそうです。(^^;
幼稚園の時に持って歩いていた弁当箱のフタには黒猫が描いてあったし、ぬいぐるみは犬だと喜ばなかったのだそうな。もっとも今でこそ猫のぬいぐるみや人形といっても当たり前ですが、その頃は動物のぬいぐるみというとクマか犬がほとんど。母親の話によると5歳の誕生日の猫のぬいぐるみを買うのに、父親はおもちゃ屋を6軒も回ったそうです。
そして小学校に上がった時に買ってもらった小さな陶器の三匹の猫の置物…これは確かどこかに出かけた時にお店のウィンドウで見て、欲しくて欲しくてベソかいてそこに座り込んでやっと買ってもらったんだったね。今でもかすかに記憶の片鱗が。
↓50年経った今でも、私の部屋の片隅にあります…。

でも、幼いころ私の家はとても猫など飼えない環境でした。
私の父は千葉の農家の七人兄弟の末っ子。六男一女で、上三人の兄は全員戦死していて(次男は駆逐艦に乗り組んでいてソロモン海の底です)、四男が実質的な後継ぎ。実家は昔からの豪農で「新兵衛さん」といえば近郷近在知らぬ者はないほどの大きな家。そこの末っ子ですから、贅沢放題・甘え放題で育ったそうで。高校卒業後にすぐ上の兄(五男)を頼って東京に出てきて兄と同じ会社に臨時工で入り、その後母と知り合ったそうです。
母はといえば茨城は筑波山の北の小さな町に、こちらは女ばかりの家族(二男五女)の四女として生まれました。
父とは対照的に貧しい家で、親族間に冷たくあしらわれながら諸方を転々とし、時には親戚の家の土間を与えられていじめられながら(と今でも母は言う)暮らしたこともあるそうです。母が尋常小学校に入学する年にやっと祖父が小さな魚屋を構え、そこに定住したそうな。とはいってもその後も借金を抱えて大変だったそうです。「貧乏人の子沢山」を絵に描いたような家だったかもしれません。
大戦末期、学校生活も最後のころはほとんど勤労奉仕で勉強など全然できなかったとか。奉仕先がちょっと遠くの農家で朝早く家を出る。すると東の空にはおびただしい煙。
「ああ、また友部か水戸が空襲されたな…」
終戦後は姉たちとともにあちこちで働き、やがて東京へ。ここで父と知り合うんですが二人の結婚はそう簡単ではなかったそうです。
父は実家の後継ぎではないとはいえ、祖父や祖母にとってはかわいい末っ子。祖父はいずれは呼びもどして本家の娘(父にとっては従妹になる)と縁組させることを考えていて、そのための家作も用意していたそうです。
ですから当然、東京に来てから知り合った「どこの馬の骨ともわからない娘」との結婚には猛反対で。しかも、家柄も身分も賤しい(このあたりが昔の人の考えですね)家の出ということで、何度も父を千葉に連れ戻そうとしたそうです。
ところがわがまま放題に育ったのがある意味では幸いしたのか?親の反対を押し切って駆け落ち同然の生活に。祖父の怒りを買い仕送りはなくなり、同じ会社に勤めるすぐ上の兄に始終金の無心をしていたそうです。もちろん結婚式など挙げていない。
そんな生活ですから、当然まともな家に住めるわけはなく六畳一間の安アパート。
私が生まれてからはいくらか祖父・祖母の態度も軟化したようですが、貧しいことに変わりはなし。
「おばあちゃん、きびしかったからね…」今でも母はため息とともにもらします。
でも、私は父方のおばあちゃんには優しくしてもらった覚えしかないんですけどね。
祖母がたまに家に来ることがあった(さすがに祖父とは違い女親の情なんでしょうね、末っ子の父が心配だったんでしょう)けど、その時まだ幼稚園児だった私によくちり紙に包んだ小遣いをくれました。その時必ず母に一言、
「あんたにあげたんじゃないよ、この子の小遣いだよ」と言ったそうな。
私は覚えてないんですが、その中に入っていたのは一万円札だったそうです。
今とは違います。昭和30年代後半の一万円と言ったら…。母が当然それを生活費にまわしたことは間違いないでしょう。
「嫁は憎くても孫はかわいい」とはよく言いますが、祖母は母がそうすることは先刻承知でいたのでしょうね。
「みかん・絵日記」では7巻で吐夢の両親である藤治郎・菊子夫婦の結婚のいきさつが思い出話として描かれます。
藤治郎はごくごく一般的な庶民の家の次男。片や菊子は資産家の未亡人=「文江おばあちゃん」の一人娘。
私の両親とは男女が逆ですが、やはり身分違いの恋。当然ながら「嫁には出さない。婿をとる」となり、こちらも反対を受けるのですが紆余曲折を経て文江も折れ、二人は晴れて結婚式を挙げます。
ウチの両親と違って二人ともおっとりした性格(ついでにいえばその息子の吐夢も遺伝なのか?おっとりしている)なので、さほど波風が立つことはなかったようですが。(^^;
ただ、ここで描かれているのは、反対する側の親にもやはり「愛」があったのだということ。
「…もうよござんす。家のことはもういいから藤治郎さんのもとへ嫁きなさい…」

(白泉社「みかん・絵日記」 第7巻 より)

総ては愛ゆえに、一番の幸福を願って…。
自分の子の不幸せを願う親などどこにもいない。
それでも、親の気持ちと子の気持ちは常にすれ違う。親から何か言われれば子は「うるさいなぁ」と言ってしまう。
でもよく考えてみると、40歳になろうと50歳になろうと親から見れば「子供は子供」なんですよね。
それをわかるようになった頃には、自分も相当な年齢を重ねてしまっている…多くの人がそうなんじゃないでしょうか。
「親父の小言が今頃になって心の中でよみがえってきた」と先日クラス会でも話が出ましたけど、人間っていうのはそういうものなんでしょうね。少なくとも、親があっての自分だということを肝に銘じなくてはいけないと思います。
自分は、自分ひとりだけの力で大きくなったわけじゃない。生んで育ててくれた親がいたからこそ…。
この当たり前のことを忘れている人が多くないでしょうか。
ネット上などで自分の親を悪しざまに語る人がいますが、私にはその感覚が理解できません。
「どんな親でも親は親」です。
この話は、アニメ版の「みかん絵日記」の方では違った角度から描かれます。
第21話と22話の前後篇。
草凪家に文江おばあちゃんが訪ねてくるのですが、これがトテモ躾が厳しいうえに大の猫嫌い。みかんはしばらくの間広場で暮らすことに。案の定、文江は吐夢に対して厳しい躾を始め、ついには菊子と衝突してしまいます。一方、みかんはノラとなったかつての兄弟:ジェリーと再会を果たしますが、実はジェリーは文江の持ってきたオルゴールを盗んでいました。その曲はみかんとジェリーが幼いころ、育ててくれたタツゾウじいさんが好きで聴いていた曲と同じ。そしてその曲は昔の菊子と文江にとっても思い出の曲だった…。
この話にはさまざまな想いが詰まっていて、アニメ全31話の中でも5本の指に入るくらい好きな話です。
成長してノラになったジェリー(原作には登場しない)が話の中心になっているのですが、見終わってみると親子である文江と菊子の互いの思いの印象も強いんですよね。
菊子と言い争いになった文江が公園で一人ポツネンと座っている。
「菊子…いつまでも子供じゃないのに…」
帰り道がわからなくなった文江を、みかんがオルゴールの音で家までそっと導いて帰る。門の前では心配して待つ菊子が。
「ごめんなさい、出過ぎたことを言って…あなたはよい家庭を築いているのに私は…」
親子の思いのすれ違いがここで解消されて和解。
そう、親にとっても、実は子供はいつまでも子供じゃない、ということを認めなければならない時もあるのです。
「いくつになっても子供は子供」「いつまでも子供じゃない」
一見、矛盾するようなこの二つの言葉、実は決して矛盾などしていないのだ、ということがよくわかるんですよね。
この二つの言葉が両立するからこその「親子」なのだと思います…。
ところで、このオルゴールに流れる曲はこのアニメのエンディングテーマ(「おじいさんへのおてがみ」)になっているんですが、いい曲ですよね。
この話では回想の中でタツゾウじいさんが唄っている原詞?が印象に残ってます。
♪夕焼け峠に 星がひとつ流れ
♪親とはぐれた子ギツネが 涙の目で見てる…

「みかん絵日記」 CD

アニメ版「みかん絵日記」の本放送は第30話が最終回でした。
実際には第32話まであったのですが、野球中継のために枠が奪われて結果的に二話削られてしまいました。
再放送時に第31話が放映され、シナリオのみで映像作成に至らなかった第32話は後にCDとなって発売されました。↑
幻の第32話「マシュマロ色の思い出」
これも、いい話なんですよね…。
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