ケプラーの法則

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【天動説から地動説へ】


夜空をしばらく見ていると、時間の経過とともに星が動いていくのが分かります。

また、日中、太陽の位置は刻々と変化します。

これらのことから、昔の人々は、地球を中心として太陽や周りの星々が動く「天動説」を考えました。

そして、古代ローマの天文学者クラウディウス・プトレマイオスが数学的に体系化して以降、

約1500年もの間、人々は天動説を信じていました。



やがて、天体観測の精度が上がるにつれて、天動説では説明しにくい事態が多発するようになりました。

そして、「天動説は本当に正しいのか?」と疑問をもつ人々が増えていきました。

ここで勢いを盛り返してきたのが「地動説」です。

この発想は、古代ギリシャのアリスタルコス(B.C.310−B.C.230)が既に主張していました。

しかし、当時は、なかなか受け入れてもらえませんでした。

その地動説を再浮上させたのはポーランドのカトリック司祭である

ニコラウス・コペルニクス(1473−1543)でした。



【ケプラーの登場!】

アリスタルコスが提唱し、コペルニクスが再提唱して以来、人々の間に「地動説」が定着しつつありましたが、

まだ、地動説の理論と実際の観測結果の間には、多少のズレが生じていました。

これは、今から考えると、地球の軌道として「円」を想定していたからです。



実際には、かなり円に近いのですが、厳密な円ではなく、「楕円」です。

地球の軌道として楕円を初めて採用したのは、ヨハネス・ケプラー(1571−1630)でした。

プラハで、ただ星占いをしていただけのケプラーが楕円軌道の発想に至り、

「ケプラーの法則」として歴史上に名を残すまでになったきっかけは、

ティコ・ブラーエ(1546−1601)との出会いでした。



不安定な政治情勢が続く中世ヨーロッパにおいて、

王や諸侯が重大な政策決定をする際には、占星術に頼るのが常で、

そのため、王室に占星術師を抱えていました。

肉眼による天体観測者としては歴史上最も精度が高かったと言われるブラーエは、

デンマーク王に長年仕えて、精密な星運行表を作り上げていましたが、

あることがきっかけで王室と衝突し、デンマークを去ることになりました。

次なる行き先としてブラーエが向かったのはプラハです。

プラハには、占星術を非常に大事にする神聖ローマ帝国のルドルフ2世が所有する占星術研究所があったのです。



プラハで星占いをして生活していたケプラーは、ブラーエの名声を聞いて彼の弟子になり、

やがて、ブラーエの残した莫大な観測データをもらい受け、

惑星の運動について詳しく研究するようになりました。

ブラーエの観測データからは、惑星が周回運動をしていることが読み取れたので、

ケプラーは、まず最初、天動説の立場から考えてみましたが、上手くいきませんでした。



そこで次に、地動説の立場に転向してみました。

天動説のときよりはマシになったものの、まだ、上手く説明できない観測結果もありました。

というのも、この時点では、地球の軌道として「円」を想定していたからです。



そこで次に、地球の軌道を「円」から「楕円」に切り替えてみました。

古代ギリシャのアポロニウス(B.C.262−B.C.190)以降、

周回軌道として知られていたのは、円もしくは楕円だったからです。

これが見事に的中!

楕円軌道を考えることで、惑星の運動を見事に説明することができたのです。


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