天動説から地動説へ

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【素朴な疑問】


太陽が地球の周りを回っているという「天動説(地球中心説)」をイメージする小学生も少なくないと聞きます。

小学校の理科の授業で、太陽の動きを観察したり、星の動きについて学んだりすれば、

天動説をイメージするのも、ごく自然なことであり、無理もないでしょう。

しかし、実際には逆で、地球が太陽の周りを回っており、これを「地動説(太陽中心説)」と言います。

日中に太陽の動きを観察していると、直感的には天動説を信じたくなりますが、

地動説を考える理由は、いったいどこにあるのでしょうか?



【最初は、天動説だった。】

夜空をしばらく見ていると、時間の経過とともに星が動いていくのが分かります。

また、日中、太陽の位置は刻々と変化します。

これらのことから、昔の人々は、地球を中心として太陽や周りの星々が動く「天動説」を考えました。

そして、古代ローマの天文学者クラウディウス・プトレマイオスが数学的に体系化して以降、

約1500年もの間、人々は天動説を信じていました。



【やがて、天動説を疑い始めた。】

時が流れ、時代が進むと、隣り合う文化文明は互いに交流し、影響を及ぼし合っていきます。

強大な国家が成立すれば、遠隔地間の交流が加速することでしょう。

古代ローマ人は、最初、

“地中海周辺とエジプトおよび、ペルシャが支配するオリエントが全世界である。”

と認識していましたが、その後、アレクサンドロス3世の東方遠征によって、

ローマ人の世界観はインド・中国にまで一気に広がり、

やがて、中国と地中海世界を結ぶ交易路「シルクロード」が発達していきました。



時は経ち、13世紀。

ベネチアの商人であるマルコ・ポーロ(1254−1324)は、

1271年、アジアへの旅に出発し、1295年に戻ってきました。

彼の旅の記録を紹介した「東方見聞録」は、当時の探検家にとって、アジアを目指す原動力になりました。

「大航海時代」の始まりです。



大航海時代以前の航海は沿岸航海であり、陸地が見える場所しか船を運航していませんでした。

何の目印もない大海原では行き先が分からず、航行できなかったのです。

しかし、羅針盤の発明により、航海のスタイルは一変しました。

方位磁針と正確な地図さえあれば、遠洋でも自分の位置を正確に把握できるようになったのです。



航海が盛んになってくると、洋上の船の数が増えます。

位置が正確でないと、座礁したり、遭難したり、衝突したり、・・・と海難事故が多発することになります。

自ずと、より正確な星図が求められるようになりました。

そこで、必要に迫られ、天体観測の精度が増していくわけですが、

天体観測の精度が上がるにつれて、天動説では説明しにくい事態が多発するようになりました。

そして、「天動説は本当に正しいのか?」と疑問をもつ人々が増えていきました。



【地動説の台頭】

ここで勢いを盛り返してきたのが「地動説」です。

この発想は、古代ギリシャのアリスタルコス(B.C.310−B.C.230)が既に主張していました。

しかし、当時は、なかなか受け入れてもらえませんでした。

その地動説を再浮上させたのはポーランドのカトリック司祭である

ニコラウス・コペルニクス(1473−1543)でした。



キリスト教では、春分の日が祝祭日の計算基準日になっており、暦のズレは重要な問題でした。

当時使用されていたユリウス暦の1年は、実際の1年よりもわずかに長く、

この結果、暦の上の季節と実際の季節に約10日のズレが生じていたのです。

コペルニクスは、より正確な暦が欲しく、そのために天体の運動について考察しました。

彼は、アリスタルコスの研究を知っており、太陽を中心に置き、

地球がその周りを1年かけて公転するものとして、1年の長さを計算しました。


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