富士山の標高の移り変わり
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【明治時代(3778m)】 富士山は、日本で初めて精密な高さが測られた山であり、 1887年(明治20年)に陸軍参謀本部陸地測量部(現・国土地理院)により、 「3778m」と決定されました。 ![]() ところで、現在、富士山頂にある三角点に表記されている標高は「3775.63m」です。 「3778m」ではありませんが、これは一体どうしたことでしょうか? 【大正時代(3776.29m)】 1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災は、 建物の倒壊および火災により、空前の大災害をもたらしましたが、 測量事業に及ぼした影響も大きいものがありました。 地震に伴う地殻変動により、三角点や水準点の従来の成果(緯度・経度・標高)が変わってしまい、 測量をやり直さなくてはいけなくなったのです。 こういった測量のやり直しは「復旧測量」と呼ばれます。 関東大震災後の復旧測量は、 マグニチュード8クラスの大地震に伴う地殻変動の全貌を明らかにした、世界で初めての例として有名で、 震源に近い三浦半島では、水平方向に2m以上移動し、上下方向に1mの隆起があったそうです。 富士山については1926年(大正15年)に復旧測量が行われ、その結果、 関東大震災に伴う地殻変動は富士山周辺にまで及んでいないことが分かりました。 この復旧測量ときに富士山の山頂に二等三角点が新設され、標高が「3776.29m」となりました。 この“二等三角点が新設された”ということは結構重要でして、 このことから、大正時代の値の方が、明治時代の値よりも精度が良いと考えられます。 というのも、明治時代の測量においては、富士山頂に三角点を設置しておらず、 ゆえに、周辺の三角点から富士山頂への測量は行っていますが、 富士山頂から周辺の三角点への観測は行っていないと考えられるからです。 一方、大正時代の測量においては、富士山頂に三角点を設置したので、 周辺の三角点から富士山頂への観測に加えて、 富士山頂から周辺の三角点への観測も行っているはずなのです。 【昭和時代(3775.63m)】 大正時代の測量で「3776.29m」となりましたが、まだ「3775.63m」とは微妙に違います。 大正時代に二等三角点の標石を山頂に設置したわけですが、 月日が経つとともに標石のまわりの岩石が崩れ、標石の大部分が露出する状態になりました。 周囲に岩石を積み上げて倒れるのを防いでいましたが、 倒壊が時間の問題となったので、1962年(昭和37年)に改埋されました。 このような場合、再び崩れる恐れがない高さまで低くして標石を埋め直すのが普通で、「低下改埋」と言います。 旧点を挟んで杭を打ち、位置を再現できるようにしてから標石を掘り出し、下を掘り下げてから埋め戻します。 そして、杭を仲介して標高も決め直します。 水平位置は変わりませんが、標高は50cmから1m低くなるのが普通です。 富士山の場合も、このように低下改埋をしました。 しかし、誰もが知っている日本一の富士山の標高である「3776m」を変えたくなかったので、 標高の低下を66cmに抑え、「3775.63m」という値に収めることができました。 四捨五入すれば、「3776m」は変わっていません。 【平成時代】 富士山頂には2002年に「電子基準点」が設置されました。 電子基準点は、「GPS測量」によってその位置が求められる基準点です。 GPS測量は電子基準点の連続観測が可能であり、全国の地殻変動の把握にも役立っています。 東日本大震災をもたらした、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(M9.0)では、 最大で、水平方向に約5.3m、上下方向に約1.2mという大きな地殻変動が観測されました。 |
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