2月28日
   AM10:00 ラスベガス マッカラン国際空港発


この日、とうとう長い様で短い様でもある、僕のラスベガスへの海外一人旅も終わる
朝の7時には起きて、7:50にホテル『アラジン』のフロントに集合して
旅行会社の人のバスに乗ってマッカラン国際空港まで案内してもらう事になっている
毎朝ベッドメイクの人の為に置いてきたチップも
今度で最後になるという事と、今までお世話になりましたという思いを込めて
通常今までは1ドルであったが、この日は2ドルを枕元に置いてきた
もう、ここラスベガスの地で僕が思い残す事も何もない
これからの人生に置いて、自分はどう生きていくべきか?
そして自分はどうしたいのかも、ハッキリではないが何となく掴めた気がしていた
7:50になり、今回の旅行でお世話になった新田さん
そしてすっかり仲良くなった運転手のロバートさんが現れて
新田さんには「おはようございます」と
そしてロバートさんには「GOOD MORNING」と声をかけた
その時のロバートさんのお返しの挨拶は今でもはっきりと覚えている
英語がほとんどわからない僕にも、その言葉の意味はハッキリとわかった
「GOOD MORNING!MY FRIEND」と...
その後、僕を乗せたバスは、その日の飛行機で一緒に帰国する人を迎える為
『ベラッジオ』『エクスカリバー』『ルクソール』『マンダレイベイ』と周り
一路、マッカラン国際空港へと進んで行った

僕が乗って帰る飛行機は日本航空(JAL)である
その飛行搭乗口まで送ってもらった僕は、改めて新田さん
そして運転手のロバートさんに、お世話になった感謝の意味を込めて挨拶をしていった
すでに親友の域にあったロバートさんにはぜひともここで渡したい物があったのだ
それはこの旅の為に、有楽町の交通会館で前もって仕入れてきた
あのフリーズドライでお湯をかけて作る
僕のあこがれの人でもある王様こと村田 基さんのお勧めでもある
あの、おにぎりである
今回の旅は総計3泊5日の旅になるという事で、5つ用意してきたのだが
結局は自身では3つしか食べなかったので
このまま日本に持ち帰るよりも、今回の旅で一番の親友になったロバートさんに
ぜひとも日本の味を一つプレゼントしたかったのだ
作り方やなんかがすべて日本語で表記されている為に
さすがにここでは新田さんへ、ロバートさんへの通訳をお願いして
直接僕の手からロバートさんに手渡した
はたして喜んでくれたかどうかは僕にはわからなかったが
「OH!THANK YOU!MY BEST FRIEND!」っと言ってくれた言葉で
僕は充分に満足であった
2人に最後の別れを告げて、僕はまた一人空港へ入っていった

ここでまた重要な事をしなければならなかった
そう、受け付けで来た時と同じ様にトイレの近くで通路側
そして前後になるべく人のいない場所での席の確保である
しかしここはラスベガス、相手は対アメリカ人と覚悟をしていた所
なんとさすがはJALである
受け付けは全部で3つあり、1人は日本人
1人は現地の人っぽいが日本語で応対していた
もう一人は完全に現地の人で、日本語はわからない様だった
あの日本人に受け付けがあたれば何とかなるかもしれない...
そう思いながら、同じ様に受け付けを待つ日本人の列に僕も並んで順番を待った
やがてもう時期僕の番になる...
そう思いながら受け付けの進み具合と僕の順番を数えてみたら
なんと、や、やばい...バリバリアメリカ人になってしまう
少し焦りながら、そして半分あきらめの気持ちをいだきながら並び続けて
いよいよ次の次に僕の番となった時、再び奇跡は起きた
案の定、アメリカ人にあたった日本人の老夫婦とのやり取りで
アメリカ人も困った様にもたもたしながら、現場の偉い人の様な日本人を呼んでいた
その間に日本人の受け付け、そして日本語の話せるアメリカ人の受け付けの列は進み
僕は間一髪、日本語のわかるアメリカ人の受け付けの前に立つ事ができた
僕の希望をつげると問題もなく、簡単に希望の席を確保する事ができた
その後も無事に全ての出国審査も通過して、僕は搭乗ゲートへと向かった

初めにここラスベガスのマッカラン国際空港にきた時には気がつかなかった...
っというか確か無かったのだが、ここには噂通りにあちこちに
スロットマシンが存在していた

マッカラン国際空港のスロットマシン

   

まだギャンブルをし足りないのか、多くの人が空港のスロットマシンの中に
お金を捨てていっていた、なんと遊んでいたのは全て日本人だった
僕はようやく日本に帰れるという安堵感からか
スロットマシンには手を出さず、ラスベガスの地での思い出を
日本から持ってきたノートパソコンにしたためていた
しかしその日もあいにくの雨で、この悪天候の為か
飛行機は多少の時間、遅れているらしかった
予定では10:00の出発であったが、遅れる事45分
ついに搭乗許可が下りて、僕は飛行機の中に乗り込んだ

そして、また再び訪れる可能性の低いこの場所に
別れを告げたのだった