韓国愛想  第三日目  
  
 我々としては朝早く食堂にお邪魔したら僧尼が待っていらした。食事の後、いろいろとお話を聞くことができた。にこにこと穏やかにお話になる。顔に皺一つない。安穏なお暮らしをされていることが顔に滲み出ている。清客のようである。
 円仏教は、一九一六年少太山太宗師・朴重淋の悟りによって創立された新興の仏教である。仏教を根本にキリスト教の教えが取り入れられている。儒教の影響も逃れられないところであろう。「○」円がこの宗教の印となっている。「法身仏一円相を信仰する敬畏心により、今行っていること、会っている人、接するもの全てを仏と見、それぞれに仏供をする。また、一円相は、諸聖者が悟った心であるので、一円相を信仰する円仏教人たちは、他宗教や思想を広く受容する。そして、他に仏像と仏供の対象を求めない」としている。国内外四三〇箇所に教堂を持ち、日本でも東京、千葉、大阪にある。二〇〇万人の信者がいるという。
 晴化円僧尼とお別れするときになった。「お一人お一人のお名前を呼び毎日お祈りいたします」僧尼は、手を合わせてそう挨拶された。
 この日の予定では、南原市から宿泊先の智異山へ向かう。南原市といえばパンソリのメッカである。伝統民族芸能市を宣言している。
 南原市の広寒桜苑に観覧に入った。統一新羅時代からの役所跡である。韓国では誰でも知っている名作「春香伝」の舞台となったところとして有名である。今は観光公園となっている。荘重な門を入ると花卉など良く手入れされた庭が広がる。朝鮮風のお堂・玩月亭の前に天の川を模した池があり、春香が逢瀬を楽しんだとされる春香祠堂・月梅(春香の母親の名)亭がある。また、春香伝由来のブランコがあるのが可笑しい。玩月亭を舞台にして年に何回か美人コンテストが行われ大変な賑わいをみせるという。手を繋いだ若いカップルが多い。小学生らしい兄妹という感じの二人が韓服を着せられて何組も記念撮影屋に並ぶのが微笑ましい。
 「春香伝」は、李氏朝鮮時代にまとめられた傑作でパンソリとして謡われる。両班の子息・李夢龍と伎生の娘・成春香のラブストーリーである。韓国で最も有名な物語である。南原は、東便制パンソリの創始者である宋興禄が生れたところである。パンソリのメッカとなった。十九世紀、南原人である申在孝は、古くから伝わるパンソリの語りを台本として整理した。彼がまとめ、パンソリ五大古典作品と、今、呼ばれるものが興夫伝(チェビ燕路程記)や春香伝である。それぞれ全編やると七時間から八時間は掛かるという。
 昼ご飯をどうすかの話になった。南原市は、泥鰌料理で名高い。駒形のどぜうほど洗練されたものではないらしい。I嬢が何でも食べるが、泥鰌だけは勘弁してということで没。横を見ると補身湯の看板があった。日本でのうなぎと同様に夏好まれて食される。犬肉のスープである。M氏の反対でこれも没となった。仕方なく太刀魚とキムチのチゲで済ませることになった。これはこれで美味い。
 春香文化芸術会館に行った。丁度、全国学生パンソリ大会をやっていた。小学生から大学生までの道代表が技を競っている。入場した時は、高校生が出演していた。色鮮やかなチマチョゴリを着て、野太い独特の声音で謡っている。鋼のような強さを感じる。真剣さに胸を打たれる。大学生ともなると堂々としている。日本の浪曲家の修行と同じで、喉から血を流しながらでも謡い続けるという。伴奏者の大鼓と掛け声のリズムが心地よい。演目は、恐らく春香伝であろう。
 国立民俗国樂院ホールに行った。こちらは、プロの演者の出演である。同じパンソリでも違う。素人でも違いが分かる。声の艶や響きの伝わり方が違う。腹に声という矢が突き刺さってくるように感じる。物語が目の前に浮かぶ。身振りが激しい訳ではないが、春香の悲しみと喜びが波となって押し寄せてくる。
 山台劇の間に象毛劇が行われた。帽子に三メーターから五メーターのリボンが付いている。首を廻しながら踊る。リボンが床に着かない。太鼓を打ちながら激しく走り廻る。狭い舞台を六人の男が円を描いて廻る。よく鞭打ちにならないな〜と思う。我々ならば、それ以前に目が回ってしまうだろう。
 山台劇は「興夫伝」だった。三人芝居だった。パンソリとして聞きたいところだったが、芝居だった。台詞は分からないけれど笑える。達者だ。風刺劇の雰囲気が伝わってくる。
 「興夫伝」は、こうだ。(ちょん・ひょんしる「民話で知る韓国」による)
 兄弟がいる。兄は大層なものを相続し金持ちになっているが、弟は子ども達に白いご飯を食べさせることもできないでいる。兄は弟にお米さえも貸さない。
 ある夏、フンブ(弟)の家の軒先に巣をつくっていたチョビ(燕)が、巣から落ちて足を折っていた。かわいそうに、蛇に襲われて落ちたのだろう。そう思ってフンブは介抱してあげた。秋になるとチョビは、南の方に帰っていった。つぎの年の春このチョビが帰ってきて、庭にパク(ひょうたん)の種を一つ落とした。パクはぐんぐん育ち、ま〜るく大きい実をたくさんつけた。パクを一つとると、フンブは大きなのこぎりで切った。パクがまっ二つにわれると、なんと山の幸の珍味がいっぱいあふれ出したではないか。ほかのパクをわるとこんどは金銀お宝ざ〜くざく。こうして、フンブはたちまち大金持ちになった。
 これを聞いた欲張りのノルブ(兄)は、じっとしていられない。家にかえるとすぐ、チョビをつかまえて、無理矢理足を折ると、包帯をまいておざなりに治した。春になり、ノルブのところにも、このチョビが帰ってきて、庭にパクの種を一つ落とした。ノブは飛び上がって喜んだ。「大きくな〜れ、大きくな〜れ」ノルブの願いどおり、大きいパクの実がたくさんなった。欲張りのノルブがあわててパクをとってのこぎりで切る。「スルロンスルロン、パグルタセ」パクがまっ二つにわれるとどうしたことだろう。トッケビがでるは、おばけがでるは。金銀お宝どころではない。トッケビとおばけがノルブの財産を全部奪い取ってしまった。
 「アイゴー、わしは一文なしになってしまった。もうおしまいだ」となげいているノルブのところに、フンブがやってきた。「兄さん、僕の家で一緒にくらしましょう」その後、ノルブは心をあらため、フンブと仲良くくらしたとさ。めでたし、めでたし。
 智異山を目指す。韓国の国立公園として一番に指定された山で、深い森の奥に聳え立つ名山である。大河ソムジンガンに沿って登る。道は細いが良く整備されている。桜並木が続く。紅葉も素晴らしいだろう。智異山に近づく頃には、日が落ちて真っ暗闇だった。山も険しくなってきた。Kさん運転の車で良かった。安心して乗って居られる。I教授の車は何処に行ったのだろうか。
 この夜の宿泊先は、青鶴洞道人村であって、書院に泊まると聞いていた。日本で言う寺子屋である。ごつごつした石畳の道を登る。なかなか探し出せない。書院が一軒二軒とある。I教授の指示がはっきりしない。戻る。I教授が丁度Uターンするところだった。ところで、この道人村とは、何なんだろう。
 明心書院とあり、韓服(ハンボク)である道ほう(衣辺に包)(ドボ:両班が普段着ている外出用の韓服)を着た六〇歳位の男が迎えてくれた。ユンさんという方だった。この書院の訓長で、いかにも文の人という感じだ。軒下に明心書院と書かれた大きな額が掛けてあった。黒色の瓦を載せた田舎の分校という雰囲気の建物だった。ご夫婦に高校生らしい、二人の女の子が住んでいた。奥様は、八十キロはありそうな立派な体躯をされ、ご主人を尊敬してやまないという態度を執っていた。昔の日本人夫婦のように一歩下がるという感じだった。ユンさんは、無口ではあったけれど、一言二言発する言葉が鋭い。重く感じる。
 落ち着く間も無く歓迎の宴を開いてくれた。山菜のキムチに地鶏の参鶏湯であった。とろけるように柔らかな参鶏湯であり実に美味かった。智異山は薬草の宝庫として知られるだけにいろいろな薬草を干したものが入っていた。まっこりもいかにも地酒という感じで野趣豊かな味がした。こんな山奥でこんなにご馳走になろうとは思っていなかった。最後にプーアル茶までご馳走になった。
 四十畳もあろうかという大部屋にパソコン部屋と三畳程度のオンドル部屋が二部屋出べそのようにあった。鼾戦争に巻き込まれないように、その一つの部屋に荷物を投げ込んで寝場所を確保しておいた。十一時頃には薄い大きな掛け布団の中にもぐりこんだ。枕が三個置いてあった。布団は一枚である。韓国人は、日本人に比べ縄張りが狭いといわれる。男同士でも肩が触れんばかりに並んで歩く。寝るときも同じである。日本人の感覚では、勘弁してよと言いたい。大きな一枚の煎餅布団といってもおかしくないほど薄い布団に男三人が一緒に寝る、想像しただけで気持ちが悪くなる。
 今日は、誰がもぐり込んでくるかと考えていると、主座敷からユンさんご夫婦とI教授、Kさんの声が聞こえてくる。娘さんの進学のことや村の将来について相談しているようだった。ユンさんは、村の助役的な立場にある。村を如何に維持していくか苦慮しているらしい。この青鶴洞道人村は、一つの特別な宗教を信仰する人たちの村であり、信仰を維持していくことの難しさなどがあるらしい。
 夜中起きると鼾戦争の真っ盛りであった。大部屋にI教授、Kさん、M氏、T氏が寝ていた。奥さんに貴方は本当に静かに眠るわねと言われるというKさんまでが鼾をかいている。風邪のようにI教授の鼾が三人に伝染したらしい。朝、起きるとKさんが驚いていた。自分でも鼾をかいている自分を覚えているという。T氏も同じだった。
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