韓国愛想  第二日目  
  
 Sさんが、朝八時に迎えに来た。「アラのお粥を食べに行きましょう」アラといえば長崎で食べたことがあった。美味だった記憶がある。クエとか沖スズキと呼ばれ幻の魚だ。高級魚だ。宿泊したモテルからすぐ近くにその店はあった。朝食を食べる人が何組かいた。現地の家族らしかった。朝食からアラかと羨ましく思った。石造りのどっしりとした丼に、あらばかりでなく身も煮詰めてある。出汁が効いていた。浅葱と大蒜が入っていた。あっさりとしていた。ちょっと辛味が足りないと思い辛子粉を数回撒いて食べた。長崎では、すし屋で食べたが、麗水では、街中の食堂のようなところで食べられるのに驚いた。ここでもご馳走になった。
 Sさんは、今日は仕事ということで、これでお別れである。再会を約した。
 I教授と待ち合わせ場所を約束してあった。九時に連絡する。もう着いているという。十時という約束だった。麗水から待ち合わせ場所まで急いでも、一時間は掛かる。韓国時間と言うのがある。約束時間に一時間や二時間遅れても何とも思わない。友達なら、待って当たり前と思っている。やけに早い。もう一人のKさんは、通常通り遅れている。韓国時間だ。
 順天市の楽安邑城民族村の駐車場で待ち合わせを約束していた。ワゴンタクシーで慌てて駆けつけた。タクシー代八万ウオン。
 I教授は、偉丈夫である。一八〇センチはあり、八十キロの体躯を持っている。目立つはずであった。見えない。車の中に居た。我々を見つけてくれた。二ヶ月振りの再会である。なぜ遅いと怒る。二時間は待ったという。
 Kさんを待たずに民族村を見学した。安東や水原の民族村を見学したことがあった。趣が違っていた。古民家を復元したりして造った村ではなかった。生活していた。李氏朝鮮時代の一、四キロメートルの城壁の中に、朝鮮時代の役所や裁判所などがそのまま建っていた。鼓楼には直径二メートルはあろうという太鼓が下がっていた。祭のときばかりでなく普段も使っているという。時を知らせているのだろうか。城内には、六十六軒、城外には二十四軒の民家があり、約二百三十人が生活している。裁判所の敷地の中には、百叩きの刑にあった人形や、裁判官と判決を神妙に聞く罪人の人形があり、可笑しかった。角に両班の帽子に真っ白な服を着た真っ黒な顔の人形らしきものがあった。下働きの常人の人形かなと思ったら動いた。本物の人間だった。
 城壁の上に立つと村が一望できた。藁葺きの屋根と白壁の平屋が整然と並んでいた。軒が触れんばかりに込み合っている。所々に瓦屋根が見える。役人である両班の家であろう。緑が多い。夕方になると、白い壁が夕日を反射して浮き上がり、幻想的な風景になるという。城外を見ると黄色い稲穂がきらきらと輝いて広がっている。コンバインの音が聞こえる。柿木が二本、三本と実をつけたまま立っていた。ちょっと前の日本の田舎と同じで懐かしい気持ちが湧き上がる。
 一軒の民家を覗いた。主人は、パンソリの演者だった。中年の女性だった。有名なパンソリ演者のお弟子さんらしく、額に入れた写真が軒下に飾ってあった。自慢げに説明をしてくれる。縁側にちょこっと座りパンソリを謡ってくれた。舞台で聞くパンソリとは違って哀しみが強く響き、土着的で感動した。訛の強いハングルだった。意味が分からなかった。恨を謡っているのであろうと勝手に解釈した。昔は、村々を「ごぜ」のように門付けをしながら歩いたという。
 覗いたもう一軒の民家は、農家だった。四畳半程度の部屋が玄関を挟んでいくつもある。向かって右側が男の部屋であり、左側が女の部屋である。玄関の奥の部屋は、少し広く主人の部屋となっている。庭は、でこぼこであり手入れはされていない。槿の木や柿木が植えてあった。キムチの甕が所狭しと置いてある。如何にも韓国らしい。庭の端に小さなしもた屋があり、鍬や鋤が置いてあった。藁が山積みしてあった。農家らしい風景だった。そんな農家が水やジュースや餅を売っていた。がっかりしたことも事実である。
 入退門の近くの場内の集会所では、住人が、クリや、無花果、長芋、干し椎茸、山菜などを売っていた。如何にも農民という出で立ちで薄茶色の上下服を着て、真っ黒な顔をしていた。精神的に豊かなのだろう。ゆったりとした話し方をした。駐車場にいた売店のオモニとは違っていた。大声で客引きをするようなことはなかった。
 Kさんが十二時頃にやってきた。半年振りの再会だった。握手よりも先に抱き合った。抱き上げられた。日本で会った時よりもひと回り大きくなったように感じた。ガッチリしていた。苦労していると聞いていたがこれなら良かった。まだ三十台のなかば、苦労は身になると常々言ってきた。大丈夫だ。
 I教授は、釜山にある公立大学日本語大学校の教授である。陽明学を研究されている。知り合ってからかれこれ十五年近く経つ。まだ四十代であろう。日本の温泉をこよなく愛し、来日の度に北から南までの温泉巡りをしている。地元のおじいちゃんおばあちゃんと話をするのが好きだという。共同温泉に良く行く。ちょっとした日本民謡も歌えるようになったと言う。絶品なのは、その野太い声で歌う「アリランの歌」である。地方地方にアリランの歌がある。それを歌い分ける。見事である。この歌声を聞けば日本のおじいちゃんおばあちゃんも直ぐに打ち解けてしまうことだろう。

 Kさんは、I教授の教え子である。東京のG大学大学院で修士を取った。テーマは、韓日比較食文化論である。それにしても味覚が鋭い。例えばコチジャンを舐めさせると、これは大量生産のものだ、いや、これはソウル近辺の○○洞のものだと判定する。今は、お茶の葉を収集していると言う。福岡で催されている国際カラオケ・コンテストに韓国代表として出演するほどの歌唱力も持ち合わせる。
 吾が一行は、順天市を離れ、益山市を目掛けて一路進んだ。実は、このとき木浦へは行けないことを告げられていた。今回の旅の目的は、木浦へ行ってホンオフェに挑戦することであるとI教授に告げた。木浦に行くと一日掛かる。ホンオフェは、食べさせるというのでひとまずは一同安心した。
 益山市に向かう途中、由緒ありそうな店に入った。田舎の両班の家といった風情の店だった。着いたのは、二時頃であったろうか、三十人位の正装した人たちが宴会をしていた。正装といっても韓服ではなくブラックスーツである。子供達も飾りの付いた可愛らしい洋服を着ていた。おじいちゃんの誕生日のお祝いのようであった。
 ここがなんと言う町なのか分からないが、海に近いので、魚だけのメニューだった。ホンオフェがあった。注文した。醗酵の日数により一日ものとか一週間もの、一月もの、六ヶ月ものとかがあるらしい。I教授にお任せした。
 ホンオフェが二種類、お皿に盛り付けてあった。イカのお刺身を大きめにきったような体裁のものだった。軟骨が見える。恐る恐る透明度の高い方を口に含んでみる。アンモニア臭はしない。単純な刺身にすぎないようだ。こりこりとして歯ごたえがいい。透明度の低いもう一種類の方を食べた。喉を通るときアンモニア臭が鼻に抜けた。アンモニア臭が喉に残った。しかし想像していた程ではなかった。期待していた程の強烈さはなかった。マッコリを飲まねばと思う程ではなかった。刺身としては決して美味いものではなかった。恐らく一月、六ヶ月と醗酵させたものはこんなものではないのであろう。ホンオフェを本場で食べたという土産話にはなりそうだ。
 世界三大悪臭食品と言われる食べ物がある。スウエーデンの「シュールストレミング」、エスキモー・イヌイットの「キビヤック」そして韓国の「ホンオフェ」である。最も悪臭を放つものがシュールストレミングらしい。いずれも醗酵食品である。シュールストレミングはニシンを、キビヤックはアッパリヤス(海スズメ)を醗酵させた物だという。悪食家に言わせれば「そりゃ〜美味い。素人さんには無理だ」と。
 ホンオフェは、韓国南部の結婚披露宴の料理として欠かせない料理で、同行のKさんの披露宴でも出したと言う。大きいものは、十万円以上する。木浦が主産地で、ブサンでも食べられるようになった。木浦から仕入れている。
 田園風景の中を走る。全羅道は、穀倉地帯である。丁度稲の刈り入れ時で、頭をたれた稲畑が延々と続く。日本の稲作地帯となんら変わらない。刈り取られた稲穂が、コンクリートの道路の上に干してある。違っているところと言えば、日の当る丘に土饅頭が累々とあることである。土饅頭、お墓である。
 我々が乗る車は、Kさんが運転していた。女性陣が乗る車は、I先生が運転している。時々、離れ離れになる。K氏は、ナビを使い慣れていて、ナビを信頼しナビの指示通りに進む。一方、I教授は、「I先生、反対に行くぞ!」「あっ、あっちは一方通行だ、高速にのれない」とひやひやとさせられる。ナビは信用しない、俺の感覚を信用すると言う。高性能なナビが装備されているにも拘わらず、ナビを見ない。携帯があって良かったとつくづくと思う。
 道無き道を進むと目の前に広大な広場が広がった。大音量の歌声が聞こえた。四十〜五十人の老若男女が木陰でカラオケをやっていた。小さな子どももいる。踊る手合いもいる。司会者がちゃんと仕切っている。これも韓国の一つの風景だ。
 カラオケを聞く人たちの中から、一人の尼さんが満面の笑みを浮かべて我々一行の方にやってきた。出迎えていてくれたのだった。我々と同じぐらいの年代の僧尼だった。小さな体を灰色の僧服で包んでいる。足が速い。一同追いつかない。この僧尼が所属する宗教の創立者が啓示を受けたと言う場所に案内された。真中に一つの石塔があり、それを囲むように九つの石塔が立っていた。
 なぜI教授は、こんな宗教団体に我々を連れて来たのか、不信に思った。その理由が後で分かった。お茶でもと案内されたのが木造の立派な建物だった。瓦葺の屋根を持つ七十畳位のどっしりとした建物だった。梁が太い。横の部屋には、轆轤が五~六台あり、登り窯が見えた。五段の大きな登り窯だった。I先生の意図に合点がいった。
 ここを管理する陶芸家の、「金性根教務」とお話をすることができた。陶芸家と言うよりも学校の先生のように見えた。物事を諭されるように話をされる。お茶道具を中心に作陶しているらしい。壁一面に茶器が展示してある。お茶教室が開かれているようでもあった。同行者のM氏とU嬢は、陶芸をやっている。熱心に話をしている。お土産にと立派な桐箱に入った茶器を全員がいただいてしまった。
 僧尼は、「晴化円(旧漢字の円)」というお名前だった。大学の先生を辞め、ここで修行して六年経つという。絶えず笑みを浮かべ穏やかにお話しされる。「円仏教」(旧漢字の円)と言う新興の仏教団体だった。お邪魔しているのは、霊光郡で、この円仏教の霊山聖地であった。百済仏教の最初の布教地であるという。高台に九階建てのホテルのような建物があり、修行の場らしき建物がいくつも列なっている。小さな岬には、十メートルの高さはあるだろうか、ガンダーラ仏的なお顔をした菩薩像が立っていた。海に面した崖の下には公園のような広場と散策路がある。崖に掘られた小さな祠が二十位あり、その一つ一つに仏様が納められていた。道の横にモンゴルのゲル(パオ)を小さくしたようなテントが五連あった。同行者が尋ねた。「綺麗なトイレですね」と。「いえ、あそこは、僧が修行するところです」
 近道をしましょうと言うことで急坂を登る。僧尼は小さな体でぐいぐいと上る。我々は青息吐息であった。
 職員の食堂に案内された。ヴァイキング形式であった。野菜のキムチが六種類位と石持やかぼちゃの煮付けが皿に盛り付けてあった。若布のスープも並んでいた。粗末と言えば聞こえが悪いが必要にして十分な食事であった。食器は、使った者自らが洗うという決まりだった。なんとなく清清しい気持ちになった。とはいえ都会に汚された我々は物足りなかった。そう、般若湯を飲んでいない。
 教師が寝泊りするというアパートのような二階建ての質素な建物に案内された。六畳位のオンドル部屋が五つ六つとあった。I教授は豪快な鼾をかくことを皆知っていた。誰が犠牲になるかが問題となった。Kさんは、般若湯を買いに街に行っていた。彼は、運転手としての明日がある。彼を犠牲にするわけにはいかない。M氏が犠牲になった。次の日聞けば、本当に見事だったという。雷も驚くだろうという。
 オンドル部屋での寝泊りを何度か経験していた。じわ〜とくる暖かさがなんともいえず気持ち良い。しかし、まっ平らな石の上に薄い絨毯を敷いたようなものであるから、寝ているうちにお尻が痛くなり二進も三進もいかなくなる。この夜もそうであった。痛て〜と何度も起きることになる。
 

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