イエスは悪魔に答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」(ルカ4:4)イエスは悪魔に答えられた。「『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」(ルカ4:8)
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| 私たちは日々の生活の中で試みに遭います。信仰を持てば試みを避けられるわけではなく、むしろ、信仰に生きようとするところに、試みもまたやってくるのです。では、試みとは何か。聖書から見ましょう。 | |
| 1、なぜ試みに遭うのか | |
| イエス様がバプテスマをお受けになったとき、天から「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(3:22)と、父なる神様の御声がありました。ところがその直後、荒野において「あなたが神の子なら」と、悪魔の試みを受けられたのです。ここに大切な真理があります。神様を「父」と呼び、神様に従って歩み始めるとき、試みもまたやってくるということです。神の子として生きる者が必ず通る道と言えるでしょう。また覚えたいのは、試みそのものは罪ではないということです。イエス様は御霊によって荒野に導かれました(1)。神に従っていても、いや、従っているからこそ試みは訪れるのです。試みの中に置かれることは、神様からの罰でもなく、ましてや見放されたしるしでもありません。 | |
| 2、試みの本質を知る | |
| 私たちを救うために人となられたイエス様は、悪魔から三つの試みを受けられました。第一は、日ごとの必要を最優先にさせようとする試みです。イエス様は四十日間、悪魔の試みを受け、空腹を覚えられました。そのとき悪魔は言います。「あなたが神の子なら、この石にパンになるように命じなさい」(3)。しかし、なぜ石をパンに変えることが悪いのでしょうか。「パンを盗んだらどうか」という誘惑なら分かります。けれども、石をパンに変えても、道徳的には何の問題もありません。悪魔が誘うのは、人を「神の言葉によって生きる者」から、「目の前の必要や利益だけで生きる者」へと引き下ろすことです。イエス様は「人はパンだけで生きるものではない」と、申命記8章3節のみ言葉をもって答えられました。これは、イスラエルの民が荒れ野で過ごした四十年を振り返る中で語られた言葉です。さらに覚えたいことがあります。誘惑は、力のあるところに来るということです。「石をパンに変えよ」という誘惑は、私たちには来ません。なぜなら、それができないからです。能力、立場、責任、影響力などを持ち、何かができるからこそ、「その力を自分のために使え」と誘われるのです。それ自体は悪に見えなくても、神を抜きにして力を用いるなら、そこに誘惑があります。私たちは、自分の弱さ以上に、自分の得意な分野にこそ気をつけなければなりません。第二は、神様の権威を蔑ろにさせようとする試みです。悪魔はイエス様に、「もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる」(7)と語ります。もし「楽をしてこの世のものがすべて手に入る」と言われたら、心が動く人もいるでしょう。クリスチャンであっても、この誘惑は決して小さくありません。これは、神様への信頼に基く歩みではなく、近道をして成功を手に入れようとする誘惑にほかなりません。自分の欲を優先してただ効率や成功を求めるなら、神様から離れてしまう危険性があります。イエス様は十字架の道を避けることなく、ただ父なる神様にだけ、全き信頼を置かれました。第三は、信頼を装いながら神様を試させようとすする試みです。悪魔は、イエス様を神殿の屋根の上に立たせ、神があなたを守ると聖書に書いてあるからと、聖書の言葉を巧みに用いて試みました。聖書の言葉に従うことは一見すると信仰深い行為に見えます。しかし、これは神様への信頼ではなく試みです。自分の思い通りに神様を用いようとしているからです。 | |
| これら三つの試みの共通点は、いずれも神様の言葉から人を引き離し、神様を必要としない生き方へと導こうとする点です。試みは、あからさまな悪の姿で近づくとは限りません。「助け」「成功」「信仰」という顔をして近づいてきます。そして、神様の言葉に立たなくても生きられると思わせるところに、試みの本当の危うさがあります。荒野のような悪魔の試みがある中を歩む時こそ、私たちは神様の言葉に堅く立って、主と共に歩んでいきましょう。 |
日本イエス・キリスト教団 香登教会
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