「そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。」(ルカ17:15〜16)
日本人の多くの方々にはご利益を求めてお参りをする習慣があります。しかし、私たちは決してご利益のためにイエス様を信じているわけではありません。イエス様を愛するからです。 | |
1、ご利益で満足する人々 | |
ある時、イエス様はサマリアとガリラヤの境を通られました(11)。ある村に入るとツァラアトに冒された十人の人が主イエスをお迎えし、遠く離れたところに立ち、声を張り上げて「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」(13)と叫びました。当時、「患部があるツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる」(レビ13:45、46)と律法によって命じられていました。ツァラアトに冒されることは神からの罰と考えられていました。どれほどの絶望を味わっていたことでしょうか。しかし、イエス様と出会い「汚れている」という叫びから「私たちをあわれんでください」という叫びに変わったのです。イエス様は「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」(14)と語られます。彼らはまだ癒されていませんが、信仰によって、祭司のもとに出かけたのです。そして「行く途中できよめられた」のです。彼らのうちの9人はきっと祭司に「きよい」と宣言され、家族のもとに帰ったことでしょう。彼らはいやしの信仰は持っていましたが、真の主との交わりを体験できませんでした。「癒やし」というご利益で満足したのです。ある方は義務として、また何かを得るために礼拝しているかもしれません。こうしたご利益のためという考えは、この世の宗教と何も変わりません。確かに聖書の神様は祝福の神です。必要に応えてくださることでしょう。しかしご利益のために礼拝する、それは間違いです。この9人は「いやし」というご利益を求めるだけで満足してしまったのです。 | |
2、主を感謝して礼拝したサマリア人 | |
しかし、彼らのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝したのです(15,16)。 この人はイエス様との真の交わりを体験し、感謝し、礼拝したのです。祭司の「きよい」という宣言よりも主との交わり、主への感謝、礼拝を大切にしたのです。事柄の本質を見抜いたのです。一般的に信仰の一歩として、それが自分の利益になるかどうかを考えることはあるでしょう。けれども、この段階にとどまってはいけません。罪を赦し、永遠の命を与えてくださる神様に感謝し、礼拝し、神様を第一とする段階へと引き上げられていくことが求められているのです。 | |
「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか」(17,18)とイエス様は今も嘆き、あなたを求めておられます。イエス様の求めるもの、それはただあなたが癒やされ、祝されることだけではない。あなたが心から神を愛し、礼拝する者になることなのです。事の本質、本当に大切なことは何か見失うことがないようにしましょう。 |
日本イエス・キリスト教団 香登教会
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