説教要旨

日本イエス・キリスト教団香登教会

 聖 句

しかし、彼は苦しみの中で彼の神、主に嘆願し、父祖の神の前に大いにへりくだり、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。(U歴代誌33:12〜13)

 

2025年9月21日(日) 第3主日礼拝

題:「背く者にも注がれる神のあわれみ」
説教:坪内信治師
聖書:歴代誌第二 33章1〜25節
讃美:8、458、222
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  マナセ王はユダの中でも悪い王でした。彼の罪は一人の指導者の罪で終わらず、民全体に悪影響を与えました。そのような者であっても真に神様に立ち返る時に、神様はなおもあわれみを注いでくださいます。
  1、民を巻き込む罪(1〜9)
  父ヒゼキヤは宗教改革を行い、偶像を取り除き、エルサレム神殿の礼拝を回復した信仰者でした。しかし、マナセは父の信仰を受け継がず、むしろ偶像礼拝を受け入れました。マナセは高き所を築き直し(3)、バアルの祭壇、アシェラ像(カナンの豊穣神)を立てました(3〜4)。これは神殿の聖性を汚す行為でした。このように、マナセはヒゼキヤが行なった宗教改革のすべてを台無しにしただけでなく、忌まわしいならわしを行ない始めたのです。想像を絶する罪が、国中に広がりました。「忌み嫌う」とは神の性質と完全に相反する、吐き捨てるべきものという意味があります。彼は、ユダの民が霊的に回復する余地のないほど、致命傷を与えてしまったのです。「この彼は」(6)とあります。まさにこのマナセがことごとく罪を犯したのだ、と強調されています。私たちが、お金、仕事、評価、人間関係などを神様よりも大切にし、自分自身の心の中心に置いてしまった時、それらのものは偶像なのです。偶像礼拝は神様からあなたの心を奪うのです。
  2、最悪の時代に生きた信仰者(列王記第二 21:16)
  マナセは、主に従い罪を犯さない者たちを迫害しました。「咎のない者の血」(21:16)とはヘブル人への手紙11章35〜38節に記されている人々のことでしょう。主を恐れ、妥協しない信仰者たちは、偶像礼拝を拒み、主に忠実に従い、命をかけて信仰を守ったのです。現代もマナセの時代と同じです。神を恐れない文化、まちがった価値観が広がる中、信仰者として生きるのは簡単ではありません。しかし、神様は忠実な者を最期まで覚えてくださるのです。
  3、最悪の時代になお示された神のあわれみ(33:12〜16)
  神様は預言者を通して何度も語りかけられました(10)。しかしマナセも民も耳を傾けませんでした。そこには意図的な拒否という意味があります。その結果、アッシリアに連行され、牢の中で鎖につながれました。しかし、神の懲らしめは、滅ぼすためではなく、立ち返らせるため(ヘブル12:5〜7)でもあります。そのような最悪の状態の中で、マナセは大いにへりくだり、祈ったのです。徹底的に頭を下げ、心を砕いたのです。神はその祈りを聞き、恵み深く応え、マナセを王座に戻されました(13)。何という主のあわれみと恵みでしょうか!マナセに本物の悔い改めの特徴を見ることができます。悔い改めは行動を伴うのです。心の変化(神への立ち返り)、行動の変化(偶像除去、礼拝回復)、他者への影響(民を主に仕えるよう導く)という変化です。
  どれほど罪深くても、神様は祈りを聞いてくださる。この神様のあわれみこそ、救いの希望です。神様のあわれみは、最悪の者にさえ注がれるのです。自分の罪の深さに絶望する必要はありません。ただ、砕かれた心を持って、主の前に悔い改めることが大切です。この世の中は、罪がまん延し、正しさが軽んじられています。でも、マナセのようにどんなに神様に反逆し、悪事を行っても、神様のあわれみは絶えることがありません。私たちの祈りを神様は見捨てず、聞いてくださいます。罪の世のただ中にあっても、希望はあります。あわれみに満ちた神様に立ち返りましょう。

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