格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。(Tコリント 12:24〜25)
教会総会も終わり、新しく役員も選ばれました。教会は国籍、職業、性格など多種多様な人々が集まる非常にユニークな集まりです。それだけ違えば問題も当然起こりやすくなるでしょう。では教会とは何なのでしょうか。 | |
1、部分と部分の関係 | |
当時、コリントの教会の中には分裂がありました。そこでパウロはこの手紙を通して、教会とは何かを教えました。教会はキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です(27)。神様は「みこころにしたがって」(18)からだの中のそれぞれの部分を備えられました(11,18)。自分がどういう働きをする部分なのかも、自分が何をしたいかによってではなくて、神様の御心によって定められているのです。御心のままにという言葉には非常に重い意味があります。あなたは神の傑作、唯一の作品なのです。神様の思いは最善です。この一点が明確にされれば自分はこれだけできるという高ぶりや、何もできないという劣等感から解放されるでしょう。 | |
2、ではどうして違いがあるのでしょうか | |
からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています(14,20)。そして、一つとして必要のないものはありません。15〜20節は自分は必要ではないと思っている人への警告です。一方21節からは自分がいなければだめだ、自分の働きが最も大切と考える人への警告です。どちらも「分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うため」(25)に大切な警告なのです。そして、「ほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならない」(22)、むしろ必要であることを教えています。自分の体を考えるとよくわかります。なくていいものは一つもありません。どこか一つの部分が悪いと、体全体の調子が狂います。人の目には弱く見える部分であっても、神様の目には、なくてはならない部分なのです。弱く見える部分が、かえって教会を強めます。さらには強いと見られる部分がこの弱い部分を必要とするのです。互いに尊び、配慮し合うのです。 | |
3、かしらと器官の関係 | |
教会はキリストのからだです(27、エペソ1:23)。キリストはその体である教会のかしらです(コロサイ1:18)。主権はキリストにあるのです。かしらはキリストです。かしらなるキリストは私たちを用いて、働かれます。かしらなるイエス様の御心を知り、部分は一つ思いになって動くのです。私たちは神様の御心のままに造られ、賜物を与えられています。みなそれぞれ違った賜物です。けれども私たち一人ひとりがキリストのからだの一部であって、一つの部分が苦しめばすべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです(26,27)。 | |
神は御心のままに、私たちをキリストの体の部分にしてくださいました。かしらであるキリストの教会の部分として、互いに尊び、いたわりあいながら前進しましょう。全ての人が必要なのです。気をつけることは私たちのうちにある高ぶり、自己中心、また劣等感です。私たちはなくてならない存在なのです。働きは違います。みな、主によって買い取られたかけがえのない存在なのです。私たちが一つになり主の栄光のために前進していきましょう。わたしたちはキリストにあって一つです。「神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい」(ローマ15:7)。 |
日本イエス・キリスト教団 香登教会
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