愛知県岡崎市に生まれ、学生時代を除きここに住んでいる。
 我が家の周りは一面まっ平らな田んぼで、遠くに低く三河山地の山々の連なりが見える程度だ。しかし、冬の空気の澄んだ時期にはその山の彼方に、真っ白な御岳や中央アルプスの駒ヶ岳などが見え、こことは違う世界の存在を感じさせてくれる。
 平らなところで育ったせいか、広々としたところが好きであるが、反面、起伏のある土地に憧れがある。よく児童文学などの舞台としてでてくる、家の近くに秘密の基地のできる小山がある。などというのが子供のころの夢だった。

小学校4年の夏休みに家族旅行で富士山に登り、初めて高山の世界を知る。当時よく行われていた夜間登山で、富士宮口から登り、頂上でご来光を拝むという予定であったが、子供には眠くて眠くて、夜が明けたときにはまだ八合目だった。
 ご来光は美しかったが、眠いのと寒いのであまりいい印象はなかった。御殿場の方に下山したが、砂走りの暑いのにも閉口した。

 

 翌年の5年生の時には立山に連れていかれた。生まれて初めて夜行電車に乗り、立山駅からケーブルカーとバスを乗り継ぎ室堂に入った。黒四ダムは完成していたがまだ室堂からダムへの観光ルートはなかった。

 室堂から一ノ越への登山道は所々雪渓を横切っており、滑りそうで怖かった。夏でもこんなに雪が残っているのかと驚かされるばかりだった。子供のことなので高山植物が咲いていたという記憶はあまりないが、チングルマだけは変わった名前だったので覚えている。このときは、みくりが池温泉に泊まり、ゆっくりした旅行だったので、いい印象が残っている。

 
立山雄山山頂にて両親と
 中学、高校は山とは縁のない状態が続いた。当時はもっぱら自転車が関心の的で、日帰りで岡崎の自宅から浜松や犬山まで出かけていた。
 高校の友人の実家が愛知県の山奥の旭町にあり、夏休みに自転車で行ったこともある。友人の実家は子供のころの憧れだった「裏山のある世界」であったが、夏の暑い日に延々と続く坂道を自転車で上がるのはしんどかった。

 

 
  大学時代は千葉で過ごした。サイクリングクラブに入ろうと思っていたのだが、新しい生活を始めた気分の高まりからか、新しいことを始めたくなり、名前に惹かれて「徒歩旅行部」に入った。昔、大きなリュックを背負った姿から「かに族」と呼ばれた若者の旅行スタイルがあったが、何となくそんな感じで全国を旅するクラブを想像していたが、「徒歩旅行部」が「ワンゲル」であったのを知ったのは入部したあとだった。
 思いがけず子供のころ垣間見た世界にまた踏み込んでしまい、最初は少々戸惑ったが、ちょうど同じ学科の同級生もいたし、「まあ、登山の技術を身につけるのも悪くない」とクラブに留まることにした。

  少しは山の経験があるとはいえ、それはやはり子供のころの家族旅行であって、大学に入ってからの山登りは、全く違う世界であった。自分の荷物だけではなく共同装備まで担がなければならないので、ザックの重さは夏合宿では30kgを越えるし、そのためのトレーニングも必要だった。ラジオの気象通報を聞いて天気図を描くことやメシの炊き方も習った。

入部後初めての山行は上越の巻機山で、残雪に囲まれたテントで寝るのはきびしかったが、北アルプス以外でも残雪の多い山があるのに驚き、新緑との対比の美しさも知った。東北の吾妻連峰にも行き、北の山の大きさ、豊かさに魅せられた。

南会津・台倉高山の湿原にて

夏合宿は南アルプス南部の縦走だった。大井川鉄道の「おもり駅」から道無き稜線をたどって大無間山に登り、大根沢山、信濃俣を越えて光岳に至り、そこからは南アの主稜線を聖、赤石、悪沢と踏破し、二軒小屋から転付峠を越えて身延方面に下山するという11泊12日の、今から思えばとんでもない大縦走だった。

大無間山までに3泊を要し、その時点で予備日を使い切ってしまった。6日目の信濃俣までは、倒木を越え、笹竹をかき分け、ハリブキのとげに刺される苦しい山行で、途中、自分たちのパーティー以外誰にも会わなかった。

 稜線には水場が少なく、自由に水が飲めないのもつらかった。南アルプスの南部は残雪や山上湿原がほとんど無く、当時の僕の好みには合わなかったが、山の一つ一つが大きく、展望が雄大で、なかなか行けない山域でもあり、貴重な山旅が体験できたと思っている。

 結局一年でワンゲルは退部してしまったが、別にこの夏合宿が苦しかったからというわけではない。僕は北海道の山に登りたかった。大雪山の縦走をしたかったのだ。北海道の山は夏休みくらい長い休みがないと行けないが、夏休みには合宿があり、夏合宿だけは部員全員が参加しなければならなかった。夏合宿の場所は南ア、上越、北ア、北海道のローテーションが決まっていて、僕は4年にならないと夏合宿で北海道へは行けないことになっていた。

  また、当時、部員は単独行と無届けの山行が禁止されていて、例えば「明日は天気が良さそうだから今夜の夜行で出かけるか。」などと気ままに山に行くことはできなかった。僕は好きなところに、自由に行きたかった。

 

  ワンゲルを退部しても山登りは続けた。翌年の夏休みには、同じころ退部した同級生と2人で念願の北海道の山へ出かけた。
 約
1ヶ月をかけて大雪、知床、利尻と、主だった山を登り尽くそうという計画だった。
同行の I と旭岳をバックに(高根ヶ原にて)

大雪は愛山渓から入山し、主峰の旭岳に登った後、トムラウシ、十勝岳と縦走し、富良野岳から十勝岳温泉に降りる7泊8日の山旅だった。おおむね天気にも恵まれ、豊富な残雪と本州では見られない高山植物に大満足だった。

大雪の白雲岳から高根ヶ原に下っていくとホソバウルップソウ、コマクサ、イワブクロなどが咲き乱れ、忠別沼のほとりは一面エゾコザクラのお花畑だった。
 忠別岳山頂の崖のふちに腰を下ろし、右手に旭岳、左手にトムラウシをのぞみ、鳥の目になって見下ろした石狩川源流の大森林は今も一番記憶に残っている。遠くに目をやれば、羊蹄山、暑寒別岳、知床の山など北海道中の山が見えるようだった。

ナキウサギの鳴くトムラウシからオプタテシケの間は登山者が少なく、おまけにガスに囲まれて一番ヒグマの怖いところだったが、ちょうど北大スキー部のパーティーと一緒になり、なんとか離れないように付いて歩いた。
 噴煙を上げる十勝岳を越え、最後の富良野岳にたどり着いて、歩いてきた山々を振り返ったときは感無量だった。

 知床の羅臼岳は羅臼から登り、ヒグマにびくびくしながら硫黄岳をピストンしてウトロ側に降りた。稜線でのテント泊は怖かった。その後、夜行列車で稚内に移動し、利尻と礼文を巡った。利尻岳はほとんどガスの中で、期待していたサハリンどころか足下の岩場すら見えなかった。

 

  3年の夏は単独で、南会津の窓明山から尾瀬を越え日光白根山への10泊11日の縦走をした。
  窓明山から会津駒ヶ岳にかけての稜線に点在する湿原は天上の楽園であったが、1人でのヤブ漕ぎは想像以上に大変だった。

  少しでもヤブの薄いところを選んで進むのだが、歩き易さだけで稜線からはずれてしまうと、斜面の下向きに生えるネマガリダケに逆らって稜線に戻るのは至難の技であった。広い稜線で迷い、駒ヶ岳小屋の手前でビバークするはめにもなった。

朝露のヤブ漕ぎでびしょ濡れになってたどり着いた
会津駒ヶ岳山頂

 

会津駒からは登山道のあるノーマルルートで、行程はすっかり楽になり、鼻歌交じりで裏燧を抜けて尾瀬に出た。尾瀬では尾瀬ヶ原から至仏へ、尾瀬沼から燧へピストンし、湿原の花も楽しんだ。しかし、賑やかな尾瀬から再び人の少ない鬼怒沼湿原、日光白根山への後半戦は、単独行の寂しさに精神的に参った。

 

その年の秋には、三峰から瑞牆山までの奥秩父全山縦走に出かけ、針葉樹の黒い森の匂いとカラマツの金色の黄葉を味わった。

谷川岳や苗場山などの上越の山、丹沢や奥多摩などにも登り、山にとっぷり浸かった学生時代だった。

 

奥秩父・富士見平(バックは南アルプス)

 

卒業後は岡崎に戻って就職し、幸い、山好きの女性と知り合い、結婚後も相変わらず山登りを続けた。近くでは鈴鹿、奥美濃、中央アルプスの山々。夏になると、北アルプスの縦走や東北の鳥海山、八甲田山などに夫婦連れで出かけた。共働きで休みを合わせるのが難しかったが、15年あまりの時間をかけて、北は斜里岳、雌阿寒岳から南は石鎚山、高千穂峰まで足を伸ばし、百名山だけでも23座を一緒に登った。

最近は、女房が膝を痛めていて、1人で登ることが多くなり、日帰りの山を拾い歩くことが多くなってしまったが、まだ飽きもせず山歩きを続けている。
 


  1983年から職場の友人に誘われて、クロスカントリースキーを始めた。就職後、ゲレンデスキーを始めたが、あまり上達しないし、リフト待ちがいやであまり性に合わなかった。当時は猫も杓子も冬になるとスキーに行ったものでスキー場も非常に混んでいた。

学生時代に一度だけ山スキーで尾瀬に行ったことがあり、スキーでの山登りは憧れであったが、一人では少々自信がなく、いつまでたっても憧れのままで、そのかわりにというわけではないが、クロカンの誘いに乗ってみることにした。

 クロスカントリースキーはBEPALなどのアウトドア雑誌で紹介しはじめられたばかりで、今でも愛好者は少ないが、当時はほとんどやる人はいなかった。クロスカントリーをやると言うと競技スキーのイメージしかないので、「なんでそんな苦しいことやるの」という反応ばかりだった。

 初めてのクロカンは名古屋のMOOSEというアウトドアショップ主催のツアーで岐阜県の荘川高原だった。当日は激しい雪で、基礎練習の後の、雪の降り積もる中でのワインパーティーは笑顔も凍りそうだった。

ゲレンデを経験している者にはクロカンは簡単ですぐに歩けるようになったが、滑るためには登らなければならなくて、起伏の多い日本の山には合わないんではないかと思った。板は軽くて軽快だが、ソールの裏に刻まれたステップだけでは急な登りは無理だった。

 しかし、晴れた日に雪原の新雪を切りながら歩き回るのはゲレンデにはない魅力で、凍結した池の上や笹薮の中など夏には歩けないところを気ままに行けるのはクロカンの醍醐味だ。スキー場のリフトを使い、ゲレンデ以外を降りてくれば山スキー並みの滑りが味わえるし、雪の積もった林道を使って冬には人が見向きもしないような山に登るという楽しみも覚えた。仲間とわいわいやりながらのランチタイムは、雪中ハイキングそのもので非常に楽しく、毎年一度はワインパーティーをするためのツアーを企画している。

 

乗鞍高原 八ヶ岳山麓・原村

 



アウトドア雑誌に触発されてテレマークスキーも買った。テレマークスキーは山スキーの装備よりも軽く、シールを付ければ山に登ることもできるし、テレマークターンをマスターできれば滑降も楽しめ、あきらめた山スキーの夢がかなうのだが、なかなか難しかった。スキー場のゲレンデでは何とか曲がれるのだが、オフゲレンデでは未だにうまく滑れない。

結局、テレマークスキーで山に登ったのは、菅平からの根子岳と位ヶ原山荘からの乗鞍岳だけだ。
  今はもう体力がなくなってしまったが、あと東北の月山くらいはスキーで登れたらと思っている。

                                                         おしまい