【vol.245】洞口千恵『芭蕉の辻』六花書林
いくたびも手をかざしけり静脈のかたちと〈われ〉が一致するまで
鍵の失せし鍵穴として君の死に対ふほかなし夜の窓を鎖す
おびただしく北へ奔れるうろこ雲のどこかに冬の封じ手がある
川に降れば川となる雪人生に無駄な出会ひはなしといへども
変はるもの変はらざるものアスファルトの陥没に降る八月の雨
秋深み余震はいまだ続きをりとぎれとぎれの記憶のごとく
減ることのなき死者たちと春彼岸スイートピーの香を分けあへり
除塩されし水田に早苗そよぎをり瑞穂の国のはじめのごとく
海までの距離が死までの距離となりし仙台平野に生き残りたり
配給の限りある水を分けあひしポトスは育ちバンブーは枯れぬ
綿入れをどんぶくと呼ぶふるさとに老いづくわれやどんぶくを着て
風化より美化がおそろし風塵をふかくしづめて雪は降りつむ
被災地に認定死者とふ死者あるを死者は知らずも彼岸花咲く
頭部の骨なくば死者とは認められぬうつつに被るモヘアの帽子
震災時の飢ゑの記憶は五十円の解凍にしんをまとめ買ひせり
役人に「動くがれき」と言はれけり被曝をしたる牛のいのちは
海が海を取り戻すまで五年(いつとせ)を生き残りたる松は記憶す
のどぼとけの骨は他人に拾はれつ父の訛りのみなもとの白
洞口さんは仙台の人。震災詠にはそこに生きる者でしか歌えない歌があり、重みがある。巻末に青春の性愛を詠んだ一連もある。1971年生れの同年代。「短歌人」同人の第二歌集。