【vol.243】永田和宏『わすれ貝』青磁社
夏至近き陽は傾きぬ目を瞑ることもできねば写真のあなた
雲のうへは雲ひとつなく晴れわたり10000フィートの雲のうへ航く
悔いばかりわれにはありてあゝきみが教へくれたる山茱萸(さんしゆゆ)の花
「おゐどをここに」と女将(おかみ)に言はれ座布団にわれのおゐどは緊張をする
退屈な中世わからぬ現代に挟まれ印象派の穏しき光
世の中はなんでこんなにさびしくて私がひとりスーパーにゐる
ポトマック河畔の桜のしたに来てかの日のやうに見るジェファーソン
病むために仕事辞めるにあらざれど仕事を辞めて病む友多し
文語文法解せぬくせにパソコンが間違ひの赤き線ばかり引く
抱きたいと思へる女性がどうしようどこにもなくて 裕子さん、おい
落ち葉焚きふたりでできる倖せを言ひゐしひとりがゐなくてひとり
月はあんまり冴えない月がいいよなとうしろの声にわれはうなづく
冷凍室の大半を占むる保冷剤大(おほ)きあり小(ち)さきありいづれも凍る
あのねあのねとあのねのねとは違ふなり あのねあのねがわたしは好きだ
百点の桜なのだが庭椅子にすわりてひとり見あげてもひとり
選別はたつたの三つ 労働者、実験検体そして価値なし
「忘れたい忘れたくない忘れない」総括としてふたたび話す
平成の半ば十年をきみ病みてきみ逝きてきみを憶ふ十年
わすれがひわれを忘れて君はゐよ雪虫われの逢ひにゆくまで
「何といふ顔」もて歩む九年後の春日通りをあの日のやうに
術後半年きみをむりやり連れ出せりなんてはかなく小さな妻だ
大笑ひしてゐるきみがきみらしい サンタクロースの海水パンツ
引き算の時間の〈いま〉をふたりして来し浄瑠璃寺四十年を経て
日に一度まんたんにまで充電をするため幼なを抱きしめるなり
千年の憂ひを今に太秦の弥勒の指は頰に届かぬ
この純愛は短歌史に残ると思う。妻、河野裕子を失くしてからの日々。憶いは、場面を変え、声音を変え、巡り廻る。「裕子さん、おい」は心の底から吐露だろう。特に平成じぶん歌「引き算の時間」の一連は、癌が見つかってからの妻との日々だけを綴っており、胸が熱くなる。記憶のすべてが河野裕子なのだ。2016年~2019年までの506首を収めた第16歌集。