マルチヌーの人生 ~ アメリカ時代 (1941 ~ 1953)
* ニューヨーク *
| 9カ月にわたる苦しい逃避行の後、フィルクシュニー、 | |
| ザッハー、ミュンシュ、シャフラーネクらに支えられ、 | |
| マルチヌーは 1941年3月新世界の地に立った。 | |
| 以後12年間のアメリカ滞在中は、 | |
| リプカはじめ同郷人らの暖かい援助のもとに、 | |
| 主としてニューヨークに居を構え、 | |
| 心から望んでいた教育活動に身を投じ、 | |
| プリンストン大学などで教鞭をとった。 |
| クーセヴィツキー依頼の第1番を手始めに、 | |
| 1942年から46年まで | |
| 毎年1曲ずつ交響曲を作り、自己の音楽思想を結晶させ、 | |
| 特に第3番を誇りとしていた。 |
| 1945年、祖国は解放されるが、故郷からの再開第1信は、 |
| 母と親友S.ノヴァークの死を伝えていた。 |
| プラハ音楽院からは作曲科教授にという依頼が来て、 |
| すぐに快諾の電報を打ったが、なぜか返事はこなかった。 |
| 1946年春、夫人は単身フランスへ一時戻り、 |
| マルチヌーも7月から1カ月半のバークシャー音楽学校での |
| 講義を終えてから帰国するつもりでいた。 |
| しかし7月半ばに3階のバルコニーから落ちて重傷を負い、 |
| その後遺症に悩んだ。 |
| 1947年、プラハの春音楽祭での第5交響曲初演には、 |
| 夫人が代理として出席した。 |
| 1948年2月、故国に共産政権が誕生、 | |
| 古くからの友人で音楽にも造詣の深かった | |
| 外務省大臣ヤン・マサリク自殺?の報に接し、 | |
| もはや帰国も叶うまいと思ったのだろう。 | |
| その後作風はハイドン風の軽快なものになっている。 |
| 4. | ヨーロッパ時代 | 1953-1959 |