マルチヌーの人生 ~ ヨーロッパ時代 (1953 ~ 1959)



(ニースにて '59)
マルチヌーは 1948年から3度ほどヨーロッパを訪れ、
1953年5月、旧世界に戻った。
ニース、シェーネンベルクなどで過ごし、晩年は
"望郷の歌" ともいえる、幻想的新印象主義作品を多く書いた。



記念碑的な「第6交響曲」を始め「ヴィオラ協奏狂詩曲」、
「ピアノ・ソナタ」、交響詩「フランチェスカのフレスコ画」、
「寓話」、「版画」、「第4、5ピアノ協奏曲」「ギルガメッシュ」、
「イザヤの予言」、「泉開き」に始まるカンタータ4部作、
オペラ「アリアドネ」、「ギリシャ受難劇」など



1958年11月、胃の手術を受けたが手術不能の癌だった。
翌59年、一時小康を得たが、
8月28日スイスのリースタルの病院で永遠の眠りについた。
「作曲家は幸せだ、音楽により精神的帰郷ができるから」
といっていた彼のペンは、故郷へのあいさつである
7月半ばの児童合唱曲で終わっている。
いつも故郷の写真と少年時代の思い出である小刀を持っていたという。
望郷の念いかばかりであったろう!

死後20年目の19979年8月末、
遺骨がスイスからポリチカに帰り、
盛大な慰霊祭が行われた。
音楽家を代表してパーレニーチェクが追悼の辞をのべ、
ノイマン指揮のもと「第6交響曲」と「泉開き」が
演奏された。
式典にはシャルロット夫人の姪や
ルツェルン市長夫妻も参列した。
前年 ('78)亡くなった夫人や兄姉の名も記された墓石には、
ボフスラフの名が加えられ、
【jsem doma われ故郷にあり】の2字が刻まれた。



速筆多作で有名なマルチヌーの作品は全部で400曲にものぼり、
委嘱作品が多いが、彼自身は室内楽に憩いを求め、
最後まで国籍を捨てずモラヴィア民謡を愛していた。
影響を受けた作曲家としてはバロックのマドリガル作家モーレイ
それにコレッリ、ドビュッシー、ストラヴィンスキーがあげられる。
作風は、ロマン派の和声と断片旋律、多調性、ピアノを含む色彩豊かな
オーケストレーションを駆使し、変ロ長調、2度3度の音程反復 (トレモロ)、
シンコペーションの多様、変拍子を好んだ。
「音楽は美しくあらねばならぬ」がモットーの彼の作品は、
心情を赤裸々に吐露したもので、晩年にはドヴォジャークの
「レクイエム」冒頭主題を時々引用していた