【作曲の経緯】 1948年、マルティヌーが第2次大戦前何度か訪れたことのあるスイスの指揮者パウル・ザッハー宅に、大戦後初めて訪問した際、マイヤ・ザッハーと古代オリエントの「ギルガメシュ叙事詩」についての会話をし、それに触発されたことがこのオラトリオを作曲するきっかけとなったという(Jaroslav Mihule,”Martin? osud skladatele”)。マルティヌーはその後1954年12月23日から作曲を始め、翌年2月18日、滞在先の南仏ニースで完成させている。 マルティヌーはオリエント文学に興味を抱いていたのであろうか。彼はこの『ギルガメシュ叙事詩』以外にも、同じくシュメールの神話である「イシュタルの冥界下り」をテーマに詩人で劇作家のユリウス・ゼイヤー(1841-1901)が書いた戯曲を台本にしたバレエ『イシュタル』を1921年11月に作曲している。 しかしこの『イシュタル』が作曲された動機は、単にマルティヌーがオリエント文学に興味があったからというだけではないだろう。少なくとも『ギルガメシュ叙事詩』作曲のときとは異なる3つの背景があったと思われる。 第1に20世紀前半にいわばブームとなっていた古代オリエント文明への世界的な関心(※1)、第2に当時、チェコの歴史や伝説を題材にしたゼイヤーの作品に音楽を書いていた作曲家が周囲にいたこと(※2)、そして第3に、フランスの作曲家ヴァンサン・ダンディ(1851-1931)の、1897年に初演されている交響変奏曲「イシュタル」が1912年にはバレエ音楽として上演、1924年にはパリ・オペラ座のレパートリー演目になったほど好評を博していたこと。1919年のプラハ国立歌劇場に帯同した欧州公演旅行で特にフランスから強い印象と影響を受けていたマルティヌーは、名指揮者のモントゥー、クーセヴィツキーなどが好んで演奏したダンディの「イシュタル」も知っていて創作意欲を刺激された可能性が十分にある。 一方『ギルガメシュ叙事詩』は『イシュタル』から33年後の作品であり、その間にマルティヌーはパリ移住、第2次大戦、米国移住を経験し、母親や多くの友人の死に向き合ってきた。生涯の黄昏時にさしかかっていたマルティヌーにはオリエント文明への関心もむろんあっただろうけれど、それよりはむしろ、この叙事詩に内包されている普遍的テーマである「永遠の生命を希求する」人間の姿に共感してこのオラトリオを作曲しているものと思われる。 |
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【「ギルガメシュ叙事詩」とは】 紀元前数千年前の、古代オリエント最古のシュメール文明(現在のイラク周辺、チグリス・ユーフラテス川河口に栄えた文明)までその起源をさかのぼることのできる、確認しうる世界最古の文学作品のひとつである。作者不詳のこの「ギルガメシュ叙事詩」には「大洪水と箱舟」の話(第11の書版)など、旧約聖書をはじめ後世の文学作品に大きな影響を及ぼしたエピソードが数多く含まれている。シュメール文明時代もともと口述伝承だったものが楔形文字を使って断片的に記録されていたが、アッシリア人が政治上優位になったのち紀元前7世紀ごろにアッカド語(古代バビロニア語およびアッシリア語)で12編の叙事詩にまとめられていった。この「アッシリア(アッカド)版」はその後小アジア一帯に広まり、ヒッタイト語、フーリ語にも翻訳された。 キリスト誕生前後に小アジアのオリエント文明が滅びたあと、中世近世にはこの地域を旅した旅行家によってその遺跡の存在が伝えられていたが、近代になってフランス、イギリスによる本格的な発掘調査が進み、その結果、膨大な量の楔形文字による謎の粘土板が発見された。1858年楔形文字(アッシリア語)が解読され、1872年英国人ジョージ・スミスが「第11の書版(「大洪水」の記述部分)」を発見し、「叙事詩」の全体像が徐々に復元されていった。1930年には英国人レジナルド・キャンベル=トンプソンがアッシリア・バビロニア語テクストをまとめた『ギルガメシュ叙事詩』を刊行し、その後の各国語翻訳の指標となった。トンプソンは1928年に「叙事詩」を英訳している。一方ヒッタイト文字は1916年に著名なオリエント学者だったチェコのベドジフ・フロズニーによって解読され、その後小アジア考古学の権威だったヨハネス・フリードリヒによって「叙事詩」ヒッタイト語版が読解されている。 マルティヌーが使用したテクストはトンプソンの英訳版と、フェルディナント・プイマンによるチェコ語訳版である。プイマン版はいささか古典英語調の形式で書かれたトンプソン版「叙事詩」に比べかなりロマンティックに意訳しているが、マルティヌーにとって重要だったのはこの叙事詩が伝えてくる哲学的なメッセージをいかに汲み取り、どう音楽的に処理するかであって、原文に忠実になる必要は必ずしもなかったと思われる。 |