中尊寺   
                        
                   
嘉祥3年(850)に慈覚大師が開基した天台宗の寺院で、建立時は、関山弘台寿院と
号したが、貞観元年に中尊寺と改めた。1100年代藤原氏が中尊寺一山の造営に
着手し寺塔四十余字、禅坊三百余字あまりになる。文冶5年(1189)藤原氏滅亡後は
すっかり衰え、なおかつ火災で全山のほとんどが焼け、金色堂と経蔵の一部を残す
のみとなる。創建当初の唯一の金色堂には藤原三代の遺骸がおさめられている。



  


開山中尊寺の月見坂


金色堂まではかなり歩く(800m)


弁慶堂・表参道には老杉がしげっている


弁慶堂


'


積善院 奥の細道展を催す


大日堂


鐘楼


中尊寺本堂山門

中尊寺本堂山門


中尊寺本堂



東の物見(ひがしのものみ)・・見晴らしのよいところ

            寄り道

  前九年の役・・
   岩手の奥六郡を支配した安部頼時は国司に従わず
   さらに勢力を拡大しようと南下した。これを防ぐため
   陸奥守藤原登任は安部頼時を討つ、これが発端と
   なり源頼義、義家親子は安部貞任,宗任を征討する
   ため12年間も戦った

  後三年の役・・
  前九年の役から22年後安部氏に代わって出羽の国と
  奥六郡を支配した清原氏に反乱がおこり陸奥守義家に
  助けを求めた。さらに清原真衛の子、清衡、家衛に争い 
  がおこる。義家は清衡を助け戦いは終わる。
  安部一族の血をひく清衡が藤原の姓を名乗り平泉を中
  心とした藤原三代の黄金文化の礎を築くこととなった。

  
* 奥羽本線の秋田県横手の先に「後三年」と云う駅
   ある、後三年の役からからきている駅名だと思う。
   一度行ってみたいものです。


昭和43に完成の覆堂の中に金色堂がおさめられている
'

経堂・・元は二階建てであったが二階部分が焼けた為
一階建てになる


金色堂 本尊は阿弥陀如来 須弥壇や巻柱は当時の技術の粋が  (パンフより)
                                                        


芭蕉句碑  金色堂の隣にある


五月雨の降のこしてや光堂


芭蕉像


奥の細道平泉の段

,

旧覆堂(鎌倉時代建造1288)新堂建設(昭和43年)の際現在地に移築


旧覆堂内部


撮者'


白山神社能楽堂

 

ページTOPへ