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◎ ウイーンの旅 その2 宮殿・音楽関係・リンク沿い
○ 宮 殿・ ベルベデーレ宮殿
・ ベルベデーレ宮殿の中庭と市街遠望
・ 中庭入り口のスフィンクス像
○ 19・20世紀オーストリア絵画館(上宮)の入り口
・ クリムトの 「接吻」
・ 「ダナエ」
○ シェーンブルン宮殿
・ シェーンブルン宮殿の庭園
○ 音楽関係・ モーツアルトの像
・ フィガロハウス
・ ベートーベンの像
・ ベートーベンも通ったカフェ「AUGUSTIN」
・ その店内
・ シューベルトの像
・ ヨハン・シュトラウスの像
○ ニューイヤーコンサート
・ アンコールに応えて
○ リンク(環状道路)沿いの建造物
・ 国会議事堂
・ ブルク劇場
・ エリザベートの像
・ シラーの像
・ 市庁舎
○ その他
・ ユダヤ広場
・ カール教会
・ ヴォティーフ教会
・ 建物の彫像
・ レストランで
○ 石畳の街をゆく、観光馬車
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ウィーンの旅 その2
ベルベデーレはラテン語で「美しい景色」という意味だそうです。
上宮と下宮があり、これは上宮。 名前の通り見晴らしのいい丘に建てられ、この上宮の反対側からはウィーン市街が見渡せます。 オイゲン公が、夏の離宮として造らせたもので、公は「ウィーンの旅 その1」で紹介した「新王宮前広場」の騎馬像の人物です。 建物の手前は水を張った池。
左の写真は中央の階段脇からのアップ。
18世紀初頭の建築で、オーストリアの後期バロック建築の到達点と言われています。確かに屋根や壁の彫像も凝っています。 公の死後、ハプスブルク家のマリア・テレジアに売却されたそうです なお、1955年5月15日、この宮殿でオーストリア政府と連合国の間で国家条約が調印され、1935年にナチスドイツに併合されて以来のオーストリアは主権を回復しました。 上宮からの眺望です。
斜面に広がるバロック庭園とその向こうに開ける市街の眺めは、世界10大美景と言われるとのこと。 中庭を下った対面の端にあるのが下宮で、現在は中世バロックの美術館になっています 写真後方の左側に高くそびえる教会は、シュテファン大聖堂です。ウィーンならどこからでも見えるというのは本当のようです。
その中庭の入り口にあるスフィンクス像。
日陰になって見えにくいのですが、上半身は女性、下半身はライオンで、背中に鷲の羽が生えています。 ここにもバロック建築のギリシャ神話好みがうかがわれます。
上宮は現在、オーストリア絵画館になっています。
オーストリアでは、王宮にある「美術史美術館」についで2番目に大きな美術館。 正面から入ると、広い入り口を支える柱にも凝った彫像が施され、いかにもバロック風の豪華さです。
この美術館を代表するのは、なんと言ってもクリムトです。
「接吻」は金箔が多用され、いわゆる「黄金の時代」の作品。 この二人は、クリムト自身と恋人がモデルだと言われます。
クリムトをもうひとつ。
ダナエはギリシャ神話に登場します。 ゼウスが黄金の雨に姿を変えてダナエを訪れ、生まれた子どもがペルセウス。 ペルセウスは、見たものを石に変える怪物メドゥサの首を取ったり、岩にはりつけられて生け贄にされていた、美女アンドロメダを救い出す英雄。 装飾的で甘美なクリムトの特徴がよく現れているといわれます。 世界遺産に登録されたシェーンブルン宮殿と庭園は、オーストリア随一の観光地。
ハプスブルク家の夏の離宮として造営され、18世紀後半のマリア・テレジアの時代に完成。ウィーン風ロココ様式で、外壁は「テレジアン・イエロー」と呼ばれる黄色です。 6歳のモーツアルトが「鏡の間」でマリア・テレジアの御前演奏をした際、転んだモーツアルトを助け起こした7歳のマリー・アントワネットに、「大きくなったらお嫁さんにしてあげる」と言ったという、いわれのある宮殿。 ナポレオンが2度司令部として用い、ナポレオン戦争後にはヨーロッパの王侯・政治家が一堂に会し、「会議は踊る」と有名になったウィーン会議の舞台になりました。 右向きに手前を横切っていく青い上着の二人は、ジョギング中。
庭園を挟んで宮殿と向き合い、高台に建っているのは、グロリエッテと呼ばれる記念碑。
その手前の彫刻群は「ネプチューンの噴水」 シェーンブルンは、「美しい泉」という意味だそうです。この地で泉が発見されたからの名付けだそうですが、それとこの噴水は関係あるのかな。 旅行中この日だけ雪。雪化粧の純白庭園も乙なものでした。 音楽の都ウィーンには、ここで活躍した有名な作曲家の彫像があります。
最初はモーツアルト。ザルツブルクに生まれ、幼い頃から神童と言われたモーツアルトは、ピアノ演奏旅行でヨーロッパ中を巡りました。 25歳からウィーンに定住し26歳で結婚。35歳の若さで亡くなるまで、作曲に演奏に天分を発揮しました。 この像は王宮近くのブルク庭園にあります。この像の前にはト音記号の花で飾られた花壇があります。 これはなかなかハンサムに造ってあり、カッコイイのですが、実際のモーツアルトの容貌とは無関係に理想化してあるのだそうです。 モーツアルトの軽やかな快い音楽を像にすると、確かにこうなるのかもしれません。 シュテファン大聖堂の少し東に、モーツァルトが住んでいた家がありました。
「モーツァルトハウス」として公開されているのですが、あいにくこの日は閉まっていました。 モーツァルトが最も幸福な時期を過ごした家と言われており、オペラ「フィガロの結婚」もここで作曲されました こちらは絵でよく見る深刻なベートーベンにそっくりの像。楽聖と呼ばれるだけの威厳があります。
市立公園の脇のベートーベン広場に建っていました。
ドイツのボンで生まれたベートーベンは、22歳の時ウィーンに移住します。 難聴が高じ、一時は自殺を考えたほどの危機を乗り越え、「苦悩を突き抜け歓喜に至る」名曲を次々と生み出した精神力は、偉大です ベートーベンは、依頼主の意向に組みせず自己の芸術をめざした最初の作曲家、と言われます。 いかなる権威にもとらわれず、同時代のフランス革命を支持。ナポレオンの戴冠を憤る進歩的な政治思想と、汎神論的で自由な宗教観を持っていました。 音楽だけでなくその反骨精神も魅力です。 ベートーベンが亡くなった56歳まであと2年という身でしたが、その生き方にあやかろうと撮ってもらった写真。 この古いカフェは、ベートーベンやシューベルト、ブラームスなども通っていたそうです
入り組んだ狭い路地を、分厚い観光案内本の地図を見ながら周囲の建物と繰り返し照らし合わせ、ついにたどり着いたときは感動でした。 店内は壁に絵が飾られ、天井も飾り付けられていました。同時に古びた内装と暗い照明、手垢の付いたテーブルが印象的でした。
開店早々で、私たちが一番乗りでした。左隅に写っているのは姪。 私はコーヒーとケーキを注文しました。 ウィーンはヨーロッパが初めてコーヒーを飲み始めた街とも言われます。もともとコーヒーは中東・イスラム世界のものだったのが、オスマントルコのウィーン包囲をきっかけに広まったと言うのです。 ウィーンはケーキの本場でもあります。マリー・アントワネットがフランス革命のさなか、パリ市民がパンを食べられぬほど困窮していると知らされて、「それならケーキを食べればいいじゃない」と言って怒りを買った話は有名ですが、ウィーンではそれほどケーキがいきわたっていたのだ、とも言われます。 市の記念公園の中にある像です。
「歌曲の王」とも言われるシューベルトですが、生前は一部にしか評価されませんでした 畏敬するベートーベンが死んで1年後、わずか31歳の若さで亡くなります。一番好きだったといわれるモーツアルトより4歳も若く。 有名な「未完成交響曲」がシューマンによって発見されたのも、死後10年経ってからでした。 リストは「もっとも詩情豊かな音楽家」と称えたそうです。 記念公園の像の中では、「ワルツ王」ヨハン・シュトラウスの像の前が人だかりでいっぱいでした。やはりワルツの本場だけあります。
中国からの観光客と見られる一団は、一人ずつこの像の脇に立ち、それぞれがポーズを作って写真を撮り合っていました。すごい人気です。 この写真はその撮影の合間の、人が立っていない一瞬をねらって撮ったもの。 ヨハン・シュトラウスと言えば普通はU世の方を指し、父のT世は「ワルツの父」と呼ばれるそうです。 父は息子が音楽家になるのを反対し、経済学を専攻させたのに、音楽の才能に恵まれたU世の方が「青く美しきドナウ」をはじめ、次々と軽快なワルツを作ったのでした。 それが ウィーンフィル恒例の「ニュー・イヤー・コンサート」の定番になります。 そのニュー・イヤー・コンサートを聴くことができました。場所はウィーンフィルの本拠地、「楽友協会」。
1812年設立の大ホールは「黄金のホール」と呼ばれます。内部が金色に輝く絢爛たる装飾に覆われていることと、音楽効果が素晴らしいためだそうです。 確かに黄金で飾られた天井や壁の彫刻には目を見張りました。 正装で着飾った聴衆にも圧倒されたのですが、「美しく青きドナウ」などヨハン・シュトラウスのワルツを次々と演奏し、最後のアンコールでは指揮者のタクトにあわせて聴衆が拍手でリズムを取る楽しさでした。 写真は指揮者が半ば聴衆のほうを向き、会場が拍手で応じているところ。 「リンク」は、旧市街を取り囲んでいた城壁(「ウィーンの旅 その1」の、ホテルの「ウィーンの古地図」参照)を撤去し、その跡に造られた環状道路。
ギリシャ神殿のようなオーストリアの国会議事堂です。
19世紀末に、古代ギリシャの神殿を模範として造られました。 正面の泉の中央に立っているのは、ギリシャの知恵の女神、アテネの像です 誰もが通る道路に面して、何の障壁もなしに建っているところに、市民に向けてオープンな国柄が伝わります。 ヨーロッパで最も美しい劇場と言われているそうです。
建物はネオ・バロック様式で、クリムトはここの天井画「ディオニソスの祭壇」を描いて脚光を浴びたのだそうです。 モーツァルトの「フィガロの結婚」や、ベートーヴェンの「交響曲第1番」もここで初演されました。 16歳でオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフと結婚したエリザベート。ヨーロッパ宮廷随一の美貌と謳われました。
しかし、自由人だった后妃は宮廷のしきたりや社交界の付き合いを嫌い、馬術や詩作を好みました。 ウィーンを離れて各地を旅行し、特にハンガリー王妃としての滞在がお気に入りでした。ハンガリーの自治権回復を後押ししたので、今もハンガリーでは人気が高いそうです。 わがままと言われながらも、王政を否定し、病人や障害者、貧しい民衆に同情する一面も持っていました。 晩年には息子ルドルフ皇太子が自殺、彼女もレマン湖のほとりでイタリア人の無政府主義者に暗殺されます。 ゲーテ像と道路を挟んで向き合っているシラーの像です。
処女作『群盗』の、自由を求めるあまり盗賊隊長となって社会に抵抗する主人公カアルのように、シラーは自由を求める不屈の理想主義者でした。 権力ににらまれていたシラーの、『歓喜の歌』を交響曲第9番で高らかに合唱させたのがベートーベンでした。 原詩では「乞食が王侯の兄弟となる」だったのを、合唱では「全ての人々が兄弟となる」と変えているそうです。 夜にはライトアップされて、ウィーンの空に輝いていた市庁舎です(ウィーンの旅その1 「ヘルデン広場から市庁舎を臨む」参照)。
帝政時代の19世紀後半に造られたネオ・ゴシック建築で、中央の大きな塔の高さは98メートル。 元日の朝に行ったのですが、この混雑ぶりでした。 市庁舎の前の広場では、正月のせいか舞台がしつらえられてウィンナワルツが演奏され、大勢の市民が踊っていました。 お国柄とはいえ、寒さもなんのそのの意気込みには感心しました。あの調子だと夜通し踊っていたのでしょうか。 かつてユダヤ人居住区だったユダヤ広場です。
広場の中心に立つのは、ユダヤ人解放に尽くしたレッシングの像。 ウィーンにおけるユダヤ人の歴史を提示する博物館や、ホロコーストで命を奪われたオーストリアのユダヤ人に対する追悼碑もあるそうです。
カール教会は1713年のペスト流行の終息を感謝し、マリア・テレジアの父カール6世が建設させたのだそうです
正面にはギリシャ神殿風のファサードや、トラヤヌス記念柱を模したといわれる2本の円柱があり、独特のつくりです。 ここでブルックナーの葬儀が行われ、ブラームスも参列したそうです。
ウィーン大学の近くに、二本の尖塔がそびえる教会がありました
ヴォティーフ教会といって、ネオ・ゴシック様式で19世紀後半に建てられたものだそうです。
ここからの3枚は、通りで見かけた建物の彫像です。
面白そうなのを紹介します。
この建物の壁を飾るのは「双頭の鷲」。
もしかしてハプスブルク家ゆかりの建物だったのでしょうか。
レストランで見かけた情景。
この犬たちは2匹とも、飼い主の足下で行儀よくしていました。
最後はよく見かける通りのひとこま。
石畳の小道を観光馬車が通ります。 向かいの凝った建物も、何か由緒ありげです。 車の乗り入れが制限されているので、古い街並みがゆったり歩いて見られるのは、さすがは歴史の街、ウイーンでした。
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