「豊岡橋」は径間11.2m、拱矢(高さ)4.4mの単アーチ石造橋で、中谷川に架かかっています。完成は江戸時代後期11代将軍徳川家斉の享和2年(1802年)10月。熊本県内で創建時の位置に保存されている石橋の中では最も古く、建造の歴史背景を今に留める貴重な価値を内在しています。輪石のズレ止めとして継手に玉石をはめ込んだ楔石(くさびいし=太柄(だぼ))と、要石(かなめいし)がリブアーチ(川の流れの直角方向に並べる)構法であることは、他の多くの石橋には無い、熊本の石橋建造の初期の特徴です。
平成5年12月3日、旧植木町が文化財に指定しました。
この橋を渡る旧道の先の国道208号線沿いに「田原坂攻撃官軍第一線陣地跡」の石標があり、西南戦争で官軍はこの橋を拠点に出撃したとされ、主たる交通路と道幅(2間・3.63m)を示す重要な遺構です。田原坂は「大砲を通すことのできる唯一の道」とされ、その道幅は本橋の幅と推定できます。
要石の列には、下記の関係者(有志・石工)が陰刻されています。
上流側の要石には、鈴麦村田原村庄屋彦次郎、正院会所詰弥兵衛、右同総代寿三郎、右同甚兵衛、右同良助。下流側の要石には、山本郡口川、内田手永月田村、石工理左衛門、右同吟右衛門、右同次平、右同惣八、正院手永円台寺村、右同大平、南関手永関東村、大工嘉右衛門とあります。
【国指定史跡(西南戦争遺跡)の一部(熊本市指定文化財)】
「肥後の石工」といっても、江戸時代から明治時代まで数多くの石工がいました。その中でも、加藤清正の熊本城築城に関わった「近江の石工」をルーツとする「仁平石工」グループと、長崎奉行所の武士「藤原林七」を祖とする「種山石工」グループの2
つの大きな石工集団に絞って、年表形式で紹介します。
「仁平石工グループ」の石橋は、長崎の石橋を参考とした中国式(リブアーチやくさび利用に特徴)で、主に県北を中心に1700年代後半から1800年代初期にかけて架設しています。
「豊岡橋」は、その仁平亡き後、弟子たちの手により架けられました。
一方、「種山石工グループ」は、1800年代初めから、八代市東陽町 種山地区(旧種山村)を拠点として、通潤橋をはじめとするアーチ式石橋を日本全国に造り続けていった土木技術集団で、開祖「林七」以来の独自の技術工法による熊本(日本)式の石橋を手がけています。
⇒「肥後の石工」年表
熊本国府高校のサイトから
肥後の石造めがね橋の変遷を簡潔に紹介されています。
⇒肥後の石造アーチ橋・変遷略史
「豊岡橋」は、西南戦争(西南の役:1877年)の激戦地となった田原坂の入口に在ります。
国道208号線の”田原坂入口交差点より100m先の右側、現道の橋から見える位置に在ります。
住所:熊本県熊本市北区植木町豊岡
・キタクマモトスマートICから9.4km
・菊水インターチェンジから12.4km
◆Google map(87枚の画像が収録されています。)