5月14日(日齢15日)
栄養は腸管が動かないためアルカリ剤の内服を母乳で溶かして入れていただけで、あとは全て点滴によるものでした。腎臓が機能しないためアミノ酸製剤を添加することができず、糖と脂肪のみできていましたが、利尿がついたことで少量アミノ酸を入れてみることになりました。しかし、翌日にはアンモニア値が上昇し即中止となりました。
腎不全が進行していた時より腹膜透析の話がでていました。そして、アンモニアが上昇してさらにその可能性が高くなりました。しかし、DICによる出血傾向と感染と皮膚の状態が悪いことより様子を見ている状態でした。私達は、すでに透析は覚悟していましたので、具体的にこの病院での実績や管理方法について、スタッフが周知できているのか、リーダーの医師に説明を求めました。
日齢8〜15日をまとめると、尿が少し出て回復の兆しもみられてきたものの、人間として元気になってこない状況が続いていました。DICも少し落ち着き輸血をしない日もありました。日齢12(5月11日)〜17(5月16日)が鎮静も軽くなり、少し動きも出てき、娘の人生で一番楽そうな時期だったと思います。
5月15日からは私は一人で車を運転して9:30には自宅を出、16:00まで面会し、一旦帰宅したのち、17:30にはまた自宅を出て18:00頃仕事を終えて面会に来る夫とともに、21:30頃までいて、それでも別れ惜しく、時には23:00近くまで居た事もありました。そして、寝る前と早朝と病棟に電話を入れ様子を伺いました。一分でも側にいたい。側にいて娘が安心していられるようにしてあげたいというのが、私の気持ちでした。娘の隣に座ってよく歌を歌ってあげました。お腹にいた時に聞いた声で、聞いた歌を歌っていれば、娘も楽かなとも思いました。
5月17日(日齢18日)
面会に行くと娘の様子がどうもおかしい。何か調子が悪そう。再び尿が減少し始めアシドーシスに傾いていきました。 『日向子どした』娘にそう言ってしまいました。この日から全身状態が悪化の坂道を下っていくように、毎日面会に行くたび娘は再び浮腫みがひどくなり、血圧も不安定になってきました。その頃、血液ろ過透析を検討しているという話がでました。
5月20日(日齢21日)
娘はステロイドを使わないと血圧が保てなくなってしまいました。昇圧剤を増やしても娘の体は反応せず、じわりじわりと血圧が下がっていってしまいます。腹水も日々たまっていきまたお腹の皮膚から浸出液がではじめました。DICも悪化しどんどん大きなお腹となっていきました。大きなお腹が肺を圧迫し呼吸不全を増悪させ、呼吸器の換気条件は毎日設定を上げている状況でした。
私達は、もう待てない。血液ろ過透析の実績のある病院に動かせるうちに移さないといけない。と思い、医師に転院を希望しました。しかし、転院を希望した病院では、娘の場合血液ろ過透析の適応基準ではなく、週明けを待って5月22日に転院の話はなくなりました。
私は受け入れられず、『透析をしなかったら、娘は生きられない』と泣きながら訴えました。(既に娘は転院できる状況でもなかったのですが・・・)血液ろ過透析の話が途絶えて生きる道を失ったことで、娘の前で『ママが悪い、ママが悪い』とわんわん泣き崩れてしまいました。夫も仕事を途中で切り上げ駆けつけました。
その夜、NICUのリーダーの医師より『お腹を刺して(腹水をゆっくり抜いて)呼吸を楽にして、透析の出来るタイミングを待とうと思います。でも、厳しいです』と話しがありました。私達は『娘を助けてください、娘は生きたいんです。生きるために産まれてきたんです』とお願いすると、『そう、そう』と相槌を打ち、目をうるましていました。
5月23日(日齢24日)
11時の面会が待てず、病棟に電話したところ、こころよく面会をフリーにしてくださいました。そして臨床心理先生も紹介していただきました。
しかし、その時は娘との時間を割かれるのが辛かったので、その旨をつたところ、それからは、遠巻きに見守ってもらいました。
23時ごろ自宅に帰ってきて食事を済ませた後、夫に『日向子ともっと遊んで欲しい。このままだと日向子1ヶ月持たないよ。2週間も持たないよ。1週間だってわからない』と言いました。夫は『7:3で治ると思っていた』と泣いていました。
5月24日(日齢25日)
この日から私達夫婦は早朝夫の出勤前に病院に行き娘に面会し、私はそのまま時々休憩を挟みながら病院で娘の側に居、夫は仕事が終わったら再び病院に来、23時ごろまで側にいて、深夜1時過ぎに電話で様子を聞き、早朝5時半にはまた電話で様子を聞く。その繰り返しをしました。
(腹水を抜く)腹腔穿刺は、娘にとって大きなリスクを伴うものです。もしかして、刺して腹水を抜いた瞬間にショックを起こしあの世に旅立ってしまうかもしれない。ボロボロの皮膚の隙間をぬって行うため、腹膜炎を起こしあの世に旅立ってしまうかもしれない。非常に厳しい選択を迫られていました。
そして私達は、娘に親の温もりやおっぱいの柔らかさを経験させてあげたい。出来るときにしてあげたい。と思い、この日早朝看護師さんに『娘を抱っこさせて欲しい。親の温もりやおっぱいの柔らかさを経験させてあげたい』と伝えました。看護師さんは驚いた様子でしたが、私達から『出来るように朝のカンファレンスで話し合ってほしいのでお願いします』と伝えました。正直自分なら出来る自信もあり、計画的にステロイドと輸血を組み合わせていけば大丈夫とも思っていたので、娘が退院する時に着せる肌着や洋服を準備していきました。
一旦病棟を出る時にもリーダーの医師に会ったので、抱っこをお願いしたところ、瞬間戸惑ったようでしたが、『お母さんの気持ち、分かりました』と返事をしてくださいました。
そして、カンファレンスの結果病棟が落ち着く午後に抱っこを行うことになりました。丁度、その日の午後は腹腔穿刺をする小児外科の医師からの話もあったので、夫も午前中で仕事を切り上げ、一緒にいられました。
初めて我が子を抱っこして、思っていたより(浮腫んで腹水も貯留していたので重いと思っていたのですが)軽く、生まれたての柔らかさを実感しました。『柔らかい・・・』と言った後は可愛くて、可愛くてたまらなくなり、『可愛い、可愛い・・・』とボロボロ泣きながら連呼していました。スタッフの皆さんも一緒に涙を流してくれました。娘の状態も安定しており、数十分抱っこし、口におっぱいをもってゆき、母乳を少したらすとペロペロとしてくれました。スタッフ総出の抱っこ作戦でした。
この日はもうひとつイベントがありました。医師から『ゆっくり面会できるように部屋を移ります』と言われました。正直、いよいよそういう時が近づいているのか、と心が重たくなりましたが、部屋を個室(隔離室)に移ってみて、静かで親子3人だけの時間が増え夫と『移ってよかったね』と言い合いました。部屋を開けてくださった子供さん、快く移ることを受けてくれたその子のお母さんに感謝しています。また、医師より、『お母さんこの部屋を自由に使ってください』と言っていただき、ありがたかったです。それまで、搾乳も娘の隣でスクリーンを立てて行っていたことや、多くの医療機器に囲まれた中、間を何とか空けて娘の向いているほうに椅子を移していたことで、居場所の狭さを感じていたので、ゆっくりと面会できるようになったことは、本当に嬉しかったです。